女性に対する丸刈り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 17:16 UTC 版)
女性のみに行われた丸刈りの事例や決まり事は古代から認められ、多くは性的交渉や性の象徴性として髪にまつわる共同体や宗教上の規律やルール違反、不道徳に対する罰や見せしめとして行われていた。 ヨーロッパにおけるものとしては、紀元前1世紀頃のゲルマンでは姦通の罪を犯した妻は、罰として剃髪させられた上で地域共同体から追放された。新約聖書には、礼拝の場で頭髪を被りもので隠すことをしない女性の髪は刈られるべきと記されている。中世では魔女として告発された女性は、頭髪だけでなく全身の体毛を剃られて調査されたという。 その他現在に至るまで、女性の髪を刈ることは女性を辱めることであり、社会的・個人的な暴力として社会に認識されている。 第二次世界大戦初期のドイツでは、ナチスによるユダヤ人迫害の際の男女の別の無い強制収容所における丸刈りの他、ナチスの指導者原理「ドイツ民族の血の純粋性と純粋性保持」の元に、1939年にポーランド人・ユダヤ人をはじめとする戦争捕虜や「下等」と見做した外国人と性的に親しんだドイツ人女性に対して、髪を切り落とすことを暗に推奨した極秘命令が出され、このような目的の行為を「丸刈り(Haarschur)」の他、「烙印押し(Anprangerung)」とも呼んでいたという。行使した側は地域のナチ党員や独善的義憤に駆られた一部民衆で、実際に公衆の面前で辱めの言葉の書かれたプラカードを首から下げさせられ、丸刈りにされている女性の写真も残されているが、多くの民衆やナチ党員の一部は、このような行為を残酷なものとして否定的であり、ときには拒否し、また外国人女性と関係をもったドイツ人男性が処罰されていない不公平さからも反感を持たれ、対外的な批判もあり、1941年夏にピークを迎えたものの、同年には公共の場における「丸刈り」は禁止された。この時期にサンプル的に「丸刈り」の犠牲者とされた女性の中には戦後に告訴し、賠償金を得た事例もある。 同時期、ドイツに占領された第二次世界大戦のフランスにおいても、女性への懲罰的な丸刈りがあった。解放前の1943年にも事例が認められるが、1944年夏の解放の際には、大規模に行われることになった。このとき、占領中の対独協力者に対し、のちに「無法な粛清」と呼ばれる処刑やリンチや略奪の嵐が吹き荒れたが、その中でドイツ占領下の時期にドイツ人兵士と性的交渉したとされる女性(「性的な対独協力)に対しては、公共の場での見せしめとして丸刈りが全国的に行われ、その数は2万人にのぼるという。全国に渡って大規模に同じように丸刈りが行われたことに関しては、命令が下ったわけではないが、丸刈りに触れたラジオ放送があったせいではないかと考える歴史家もいる。丸刈り被害者の女性で、実際にドイツ人と性的関係を持っていた者は半分以下の42%ほどで、あとは別の協力をしていたり、枢軸国出身者であったと調査結果が残っている。髪を刈られたあと、裁判にかけられ処刑されたり、刑に服すことになった女性もおり、これらの女性は、裁判処刑という経過を辿っただけの男性の対独協力者以上の、二重の罰、抑圧的暴力を加えられたといえる。占領中、優位性を示せなかったフランス男性の鬱屈が、弱い立場の女性に向けられ、支配秩序の再構築の糧とされた側面があるとみる論もあり、ドイツにおける丸刈りは予防としての見せしめであり、丸刈りにされた女性がナチの被害者であることに対し、フランスの丸刈り禍の女性は長く犯罪者扱いされた。 アイルランドで、18世紀に開設され、1996年まで存在していた「マグダレン洗濯所(en:Magdalene asylum)」(マグダレン修道院)は、宗教的・慣習的に性的不道徳・不名誉という烙印を押された女性が強制的に収容され、のちに国家的関与があったとして、首相が謝罪することになった人権蹂躙にあたる抑圧的暴力の中には、収容に際して「丸刈り」にされたことも含まれていた。その様子はノンフィクション作品『マグダレンの祈り』にも描かれている。
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