失敗に終わった1回目の発航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 02:53 UTC 版)
「河辺忠夫」の記事における「失敗に終わった1回目の発航」の解説
2月7日の発航の前に失敗した発航が有った。1月18日に草野町に機体を搬入した後、山上に運び上げ期待の気圧配置と風力を待ったがなかなか期待通りの風に恵まれず1月29日午後5時15分1回目の発航に踏み切ったがこの発航は失敗に終わり山上での機体の修理に追われる事になった。短い時間のなか低い温度とテントの中という悪条件下折れた翼の補助桁、リブ5 - 6本が前田航研作業員により接着修理が行われた。 この件に関し河辺自身が軍隊日記の中で当時を振り返り手記を残している。手記には、発航に適する場所の選定、着陸場所の確認と夜間着陸を想定して夜間照明地点を定めた経緯が綴られている。此処に記録達成から1年後に書かれた日記を引用する。原文は旧仮名遣いだが出来るだけ原文に忠実に現代風に書き改めた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}昭和16年2月7日帆走飛行をかえり見る・・・一年経つのでもう詳しいことは記憶に残っていない。記録を作ろうと言うことはかねがね念願だったが大日本青年航空団 に入っていよいよ実行に移すとなったのが12月頃だったと思う多分12月だったと思う(正月前だったから)一人で耳納山を見学に行った、高良山の方面を見て良いところがあった7 - 8メートルの風に帽子を上に投げあげると急に上昇し笹の葉陰にサッとかくれたと思うともういくら探しても自分の手元には返ってこなかった、困ったことには西山さんの物を借りて来たのだから 。とうとう姉にも言わずにどうにかこうにかごまかしてしまったが本当にすまなかった。まあまあこの事はいつか姉に笑い話するときが来るだろう、それまでまとうかと!髪は、1寸5分程記録飛行の準備にと、生まれて初めて伸ばしているし帰りにはノーハットで少し変だった。2度目の視察は僕と、武中氏、蔵原氏、森氏、山内と5人、今度は方向を変えて草野町から発心山に登り又草野町に降り来たんだがこの見物で大体、本部を草野町、発航地を発心山を離れること500メートルの最良の地点と決めることが出来た。一方工場の方では機体の制作を急ぐし、設備を施すし、検査を受けて草野町に機体運搬したのが夜12時頃、町長上野久守方に機体人員とも一泊する。(1月18日と思う)早速翌日山上に運搬、僕と山内氏は筑後川原、太朗原着陸場巡視、夜間照明地点を決めて帰る。山を見ると2つの白い翼が思ったより非常に早く自分たちが帰る頃には山頂に着いていた。皆に感謝したい様な気だった事を今でも忘れぬ。早速飛ぶ予定だったが風が出ぬので一旦全員引き上げ自分と、西さん、山内さんと3人で長期抗戦する事にした。そのうち、前田さんも時どき様子見に来ていたが、いつもしょんぼりと引き上げていく。1月25日頃だったか、気圧配置も良いし山頂よりスタートしたが、ゴム索引者が雑木やささの中でV字型を開いた為尾部保持ロープをほどいても、力なく45度の斜面を、ほとんど浮力無くササの葉を翼下面としてたたきながら滑っていると左翼端をつげの木に引っかけ180度旋回、方向舵を下にして滑り始めた。このまま谷底までと思っているうちに補助翼と主翼の間に雑木が食い込み、補助桁と小骨5,6本を破損してようやくストップした。これで第一回目は失敗。 やはり気が進まぬ時に、飛ぶ物ではない。(風が少ないから高度を上げる事が出来ない事が解っていたから) —河辺忠夫、河辺軍隊日記 河辺は巧みな操縦で気流をとらえ地上との無線通信手段の無い中深夜に及ぶ滑空を続けた。日没17時50分、深夜に至り搭乗機寒暖計で零下10度を示すなか、2月8日未明午前0時08分03秒、善導寺町古北の浜(筑後川の河畔)に地元住民協力のたき火の明かりを頼りに無事着陸。滞空時間13時間41分08秒の日本公認滑空機滞空日本新記録を達成した(内夜間滞空時間6時12分03秒)。
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