失敗に終わった京阪神地区での運転構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 20:26 UTC 版)
「スト権スト」の記事における「失敗に終わった京阪神地区での運転構想」の解説
なお、大阪鉄道管理局管内は鉄労の牙城で、1971年(昭和46年)の組織構成比率では国労1万4,000人に対して鉄労2万人と上回っており、1972年(昭和47年)の春闘までは一部の列車を運行させていた。しかし、それ以降は「かえって混乱を招き危険だ」として管理局の判断で全面運休の方針となっていた。スト権ストの際、上部組織の民社党は国鉄当局へスト拠点指定を受けていない地区での列車運行を申し入れた。この提案には内閣官房長官の井出一太郎も同調した。また、大鉄局に対して大阪地本が「ラッシュ時の運行は無理としても、昼間の時間帯ならある程度電車は走らせられる」と申し入れている。鉄労大阪地本案の立てた運行計画は下記のような内容であった。 大阪環状線:40分に1本程度 東海道本線、山陽本線:1時間に1本程度(京都駅-西明石駅間) しかし、民社党の申し入れに当局側は「事故を防ぐ」という説明を繰り返して提案には乗らず、大鉄局は「慎重に検討する」と述べただけだった。なお大鉄局は信号関係、終着駅での折り返しを理由に挙げている。そのため、民社党は「労使がアベックで列車を止めている」と批判した。
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