失敗と開発の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/10 17:21 UTC 版)
「Fw 191 (航空機)」の記事における「失敗と開発の終焉」の解説
数多くの電動モーターと配線が取り付けられていたためFw 191は"空飛ぶ発電所(Das fliegende Kraftwerk)"というあだ名を付けられたと言われる。これは唯でさえ重い機体に更なる重量過多を招き、それに加えてもし発電機に1発でも敵の銃弾が当たろうものなら機体のあらゆるシステムが作動不能になる危険性を持っていた。メルホルン博士(Dipl. Ing Melhorn)はFw 191 V1の初飛行を1942年初めに行ったが、予想された通り規定出力に達しないエンジンの出力不足という問題が直ぐに持ち上がってきた。もう一つの予想外の問題は、展開した時に激しいフラッターを発生させるムルトップ・クラッペでありこれは改善を要する点であった。この時点では武装はダミーで爆弾も搭載していなかった。Fw 191 V1による10回のテスト飛行が完了した後で類似のV2がテストに加わったが、僅か10時間のテスト飛行の記録しか残されていない。Fw 191に搭載される予定の2,500 hp (1.9 MW)のJumo 222 エンジンは問題点を解消していった。 合計で僅か3機の試作機V1, V2とV6しか製造されなかった。Fw 191の開発プロジェクトはエンジンの不具合と広範囲にわたり電動モーター駆動システムを採用したことで失敗した。Jumo 222 エンジンが初飛行には間に合わずその代わりに1,600馬力のBMW 801 MA 星型エンジンを2基搭載した直後から問題が発生した。このFW 191 V1は深刻な馬力不足であり、もう一つの問題はRLMが通常は油圧作動か機械作動で動かす全てのシステムを電動モーターで動かそうと固執したことであった。 この点でRLMは再設計と電動モーターの使用を止める(標準的な油圧式に変更)ことを許可し、これによりFw 191 V3、V4とV5は中止された。その後Fw 191 V6が新しい設計に沿って改造され、離昇出力2,200馬力を発生する特別に用意されたJumo 222 エンジンが取り付けられた。この新しいFw 191の初飛行はハンス・ザンダー(Hans Sander)大尉の操縦で1942年12月に行われた。V6の飛行特性は改善されていたがJumo 222 エンジンはいまだに設計出力に達せず、製造に必要な特殊金属の不足によりこのエンジンの先行きは暗いものであった。Fw 191 V6はFw 191Aシリーズの試作機となるはずであった。 Jumo 222 エンジンには初期トラブルが頻出し、ダイムラー・ベンツ DB 604の開発は既に放棄されていたため新しいFw 191Bシリーズの開発が進められた。 Fw 191 V13にはDB 601かDB 605 12気筒エンジンを2基組み合わせたダイムラー・ベンツ DB 606かDB 610を搭載するためにV7 から V12の機体は中止された。しかしこれらの低馬力重量比のエンジンを使用することにより武装とペイロードを減らさなければならなかった。既にエンジンナセル後部の銃塔を外すことが決められ、他の武装は手動操作に変更された。新しいエンジン配置の5機の試作機(V14からV18)が更に計画されたが製造はされなかった。 Fw 191の開発プログラムを延命させる最後の試みは1,340馬力のユモ 211Fか1,475馬力のDB 605A又は1,475馬力のDB 628を4基搭載したFw 191Cの提案であった。キャビンは非与圧化され武装は手動操作にされた。深くされた胴体底部の段差は銃手のためのものだった。 不幸なことに、この時点で全ての"B爆撃機"計画はキャンセルされた。その主要な要因は"B爆撃機"計画の最優先の要求事項の一つであった2,500馬力級エンジンが無いことであった。Fw 191は失敗作として記憶されているが機体と設計全般は最終的には良好な状態まで改善され、唯一アンダーパワーのエンジンと全てのシステムを電動モーターで作動させることに固執したことが最終的にこの機種を台無しにした。結局僅か3機のFw 191(V1、V2、V6)が製造され、Fw 191BとCで製造された機体は無く設計段階以降には進まなかった。最終的にプロジェクトは破棄された。
※この「失敗と開発の終焉」の解説は、「Fw 191 (航空機)」の解説の一部です。
「失敗と開発の終焉」を含む「Fw 191 (航空機)」の記事については、「Fw 191 (航空機)」の概要を参照ください。
- 失敗と開発の終焉のページへのリンク