大宮町時代(1952-1966)
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「一宮市立図書館」の記事における「大宮町時代(1952-1966)」の解説
一宮市立図書館の蔵書数年 点 1948 7,181 1958 28,399 1968 67,710 1980 176,305 1989 274,866 2001 414,136 2010 877,908 2013 1,042,946 1950年の朝鮮戦争は戦争特需をもたらし、一宮市を中心とする尾張地方の繊維業界はガチャ万景気と呼ばれる目覚ましい成長を遂げた。1950年に愛知県で開催された第5回国民体育大会に合わせて、体操競技の会場となった一宮市は大宮町にあった飛行機格納庫を購入して一宮市体育館に転用した。1952年5月8日にはこの体育館に併設された建物に図書館が移転。当初は1階のみを使用していたが、後には教育委員会が使用していた2階も閲覧室となった。 1953年頃には21時までの開館時間が好評だったが、1956年には18時までに短縮された。当時は氏名や職業などを書いた入館券を提出する必要があり、1953年の属性別入館者は多い順に学生、団体、実業、公務員、家庭婦人、児童、教員宗教家だった。学生は一宮商業高校の生徒が多かったという。1948年度の蔵書数は7,181冊だったが、1952年度の蔵書数は12,335冊、1958年度は28,399冊と、着実に蔵書を増やしていった。1955年(昭和30年)の一宮市は近隣8町村を合併して人口15万人の都市となり、1960年(昭和35年)頃には一宮税務署の徴税高が鳥取県全体を超えるまでに至っている。 一宮市立図書館の貸出数年 点 1948 不明 1958 28,619 1968 95,770 1980 358,735 1989 654,685 2001 956,414 2010 2,285,467 2013 3,092,490 1956年には本町通5丁目にあった森春濤(一宮出身の詩人)の詩碑を本館正面東側に移し、移設記念遺墨展と講演会が開催された。1956年には田中新男が専任館長に就任し、同年中には田中の後を継いで一宮市教育委員会社会教育課長の平松稔が課長と館長を兼任した。平松は同年に図書館法の精神に則った一宮市立図書館設置条例を制定している。 1957年には平松の後任として、小中学校長を務めた入山仙一が専任館長となり、入山は時代の趨勢に沿って開架室や児童室を設置している。まず1961年8月1日には小部屋を改装して児童閲覧室とし、1961年11月1日には蔵書のうち4,000冊が開架式となった。愛知県内では1952年に豊橋市図書館が全館開架に踏み切っているが、1954年には部分開架に見直していた。天井に扇風機が回る児童閲覧室は子どもに喜ばれ、特に図書館に近い一宮市立宮西小学校の児童が利用した。 1957年には団体貸出制度が設けられ、開始当時には800冊が、1965年頃には3,000冊が団体貸出に割り当てられていた。トランク型書箱を用いて大量の図書を貸し出せる制度であり、青年団・婦人会・職場のグループなどが利用した。1964年5月22日には『愛知県史』や『一宮市史』を編纂した森徳一郎から蔵書の寄贈を受けており、森から寄贈された書籍は今日の郷土資料の中核をなしている。1964年には愛知県立一宮商業高校教諭や一宮市立中学校長などを務めた長谷川正が専任館長に就任。1952年に182万2845円だった図書館費は、1965年には805万円となった。 大宮町時代の建物は戦前に飛行機格納庫として使用されていた建物であり、通風や採光などに問題があった。閲覧室は夏季が蒸し風呂、冬季が冷蔵庫の様相を呈し、庇がないため大雨が降ると館内に雨水が浸入した。体育館に隣接しているため、体育館で行事があるたびに騒がしく、また近隣の真清田神社を訪れる参拝客も騒音源となった。高校生が閲覧室で異性と愛を育む場として利用することがあったため、1964年には閲覧室が男女別席となり、この変更に対して時代にそぐわないとする投書もみられた。
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