大宮町立周枳小学校
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1873年(明治6年)12月6日には周枳学校(第11区2小区峰山幹校周枳支校)が開校した。北村・殿尾・向地が連合して設立した学校であり、当時の学区内の戸数は173戸、人口は731人だった。学齢児童は121人であり、うち男34人と女15人の計49人が就学したが、実際に出席し続けた児童は男32人と女3人程度だった。当初の周枳学校は殿尾にある永岡徳助の民家を用いていたが、狭隘化したことで1874年(明治7年)3月には妙受寺の本堂に移転した。1877年(明治10年)には妙受寺が再び狭隘化し、閉校まで使用される周枳村643番地・645番地に移転した。 1894年(明治27年)2月17日には講堂兼屋内運動場が完成した。1881年(明治14年)、1909年(明治42年)、1921年(大正10年)にはぞれぞれ校舎が増築されている。1910年(明治43年)3月31日には高等科の設置が認可されて周枳尋常高等小学校に改称した。1927年(昭和2年)3月7日に発生した北丹後地震では校舎など建物の被害こそ少なかったが、児童1人が家屋の下敷きとなって死亡した。 1941年(昭和16年)4月1日、国民学校令によって周枳国民学校に改称した。1945年(昭和20年)4月には京都市立待賢国民学校から42人の学童疎開を受け入れた。1937年(昭和12年)には周枳グランドが完成しており、太平洋戦争末期には周枳グランドで甘藷などが栽培されている。1947年(昭和22年)4月1日には周枳村立周枳小学校に改称した。1951年(昭和26年)4月1日には大宮町立周枳小学校に改称した。1972年(昭和47年)3月25日には最後の卒業式を行い、4月1日には大宮町立第一小学校(後の大宮町立大宮第一小学校)に統合された。1974年(昭和49年)6月1日には大宮町立大宮第一小学校の新校舎が完成しているが、それまでは旧周枳小学校が大宮町立大宮第一小学校周枳校舎となった。 2022年(令和4年)時点でも1894年(明治27年)築の講堂兼屋内運動場が現存している。
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