図案家・挿絵画家としての半古
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「梶田半古」の記事における「図案家・挿絵画家としての半古」の解説
若い頃から図案で生計を立てていただけあって、半古は故事や服飾、図案にも通じていた。明治37年(1904年)自作図案集『和可久佐』を出版している。図案の中にはアール・ヌーヴォーの影響を受けたとおぼしきデザインもあるが、単なる物真似ではなく自分の中で完全に消化した上での表現となっており、印章も洒落た字体を用いたものがある。半古は図案を描くヒントを得るため顕微鏡を使ったといわれ、日本画家としてはおそらく一番早く電話を引き、ハンモックで昼寝をするなど、積極的に新しものを取り入れた。日本画と洋画を区別する考え方は偏っているとして一蹴し、自らも油絵を描いている。明治35年(1902年)頃には、王朝衣装に着想を得て、現代風に着やすくした改良服の図案を発表するが、こちらは普及しなかった。 また、半古の画業で大きな比重を占める分野に、明治30年代から40年代をピークとした雑誌や新聞の挿絵や口絵の制作がある。本格的に挿絵を手がけるのは、明治30年(1897年)読売新聞社員となり、尾崎紅葉の『金色夜叉』の挿絵を書き始めてからである。小杉天外『魔風恋風』や尾崎紅葉『寒牡丹』など、新聞連載小説の挿絵は10数本にのぼり、半古が挿絵や口絵をつけた単行本は50冊を越える。また、雑誌の口絵も『文芸倶楽部』や『新小説』など総数100点近く描き、読売新聞紙上のこま絵(カット)は膨大な数に及ぶ。半古は口絵や挿絵を量産しながらも、決していい加減な気持ちで描いた訳ではなく、むしろそれらの地位を高めるべく奮闘した。半古が描いた女学生の髪型や着物の着こなしは、当時の若い女性たちの憧れの的であり、「半古の女学生」という言葉が出来るほどだったという。 明治38年(1905年)、新聞小説の挿絵の仕事に興味を失いほとんど描かなくなる一方で、この頃から絵葉書の仕事が増える。明治30年代後半から大正にかけて、日本で一大絵葉書ブームが巻き起こり、多くの画家が生活の糧を得る必要もありこれを手掛けた。そうした中には独自の境地を切り開いた画家も少なくないが、半古もその一人で、明治38年9月の日本絵葉書展覧會における上位二賞入選作11点のうち、半古の作品が4点を占めている。 これらの仕事のおかげで、半古は当時の日本画家としては珍しく本画だけで生活できた反面、展覧会にふさわしい大作が少なくなってしまった面もある。生前、半古は流行を追って華やかで目を引く大作ばかりが重視される風潮に警鐘を鳴らしており、文展不参加もそうした半古の姿勢の現れとも考えられる。 彼の門下からは小林古径、前田青邨、奥村土牛、新井勝利、夏目利政、山内神斧、高木長葉らが出た。画名の高さや近代日本画を語る上で重要な位置にいるにもかかわらず、展覧会出品作も含め作品の所在がつかめない場合が多く研究が進んでいない。
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