図案家・挿絵画家としての半古とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 図案家・挿絵画家としての半古の意味・解説 

図案家・挿絵画家としての半古

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 01:10 UTC 版)

梶田半古」の記事における「図案家・挿絵画家としての半古」の解説

若い頃から図案生計立てていただけあって、半古は故事服飾図案にも通じていた。明治37年1904年自作図案集『和可久佐』を出版している。図案中にはアール・ヌーヴォー影響受けたおぼしきデザインもあるが、単なる物真似ではなく自分の中で完全に消化した上で表現となっており、印章洒落た字体用いたものがある。半古は図案を描くヒントを得るため顕微鏡使ったといわれ、日本画家としてはおそらく一番早く電話を引き、ハンモック昼寝をするなど、積極的に新しものを取り入れた日本画洋画区別する考え方偏っているとして一蹴し、自らも油絵描いている。明治35年1902年)頃には、王朝衣装着想得て現代風に着やすくした改良服の図案発表するが、こちらは普及しなかった。 また、半古の画業大きな比重占め分野に、明治30年代から40年代ピークとした雑誌新聞挿絵口絵制作がある。本格的に挿絵手がけるのは、明治30年1897年読売新聞社員となり、尾崎紅葉の『金色夜叉』の挿絵書き始めてからである。小杉天外魔風恋風』や尾崎紅葉寒牡丹』など、新聞連載小説挿絵10数本にのぼり、半古が挿絵口絵をつけた単行本50冊を越える。また、雑誌口絵も『文芸倶楽部』や『新小説』など総数100点近く描き読売新聞紙上のこま絵(カット)は膨大な数に及ぶ。半古は口絵挿絵量産しながらも、決しいい加減な気持ち描いたではなく、むしろそれらの地位高めるべく奮闘した。半古が描いた女学生髪型着物着こなしは、当時若い女性たちの憧れの的であり、「半古の女学生」という言葉出来るほどだったという。 明治38年1905年)、新聞小説挿絵仕事興味失いほとんど描かなくなる一方でこの頃から絵葉書仕事増える明治30年代後半から大正にかけて、日本一大絵葉書ブーム巻き起こり多く画家が生活の糧を得る必要もありこれを手掛けたそうした中には独自の境地切り開いた画家少なくないが、半古もその一人で、明治38年9月日本絵葉書展覧會における上位二賞入選11点のうち、半古の作品4点占めている。 これらの仕事おかげで、半古は当時日本画家として珍しく本画だけで生活できた反面展覧会にふさわしい大作少なくなってしまった面もある。生前、半古は流行追って華やか目を引く大作ばかりが重視される風潮警鐘鳴らしており、文展不参加そうした半古の姿勢現れとも考えられる彼の門下からは小林古径前田青邨奥村土牛新井勝利夏目利政、山内神斧高木らが出た画名の高さや近代日本画を語る上で重要な位置にいるにもかかわらず展覧会出品作含め作品所在がつかめない場合多く研究進んでいない。

※この「図案家・挿絵画家としての半古」の解説は、「梶田半古」の解説の一部です。
「図案家・挿絵画家としての半古」を含む「梶田半古」の記事については、「梶田半古」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「図案家・挿絵画家としての半古」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「図案家・挿絵画家としての半古」の関連用語

1
14% |||||

図案家・挿絵画家としての半古のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



図案家・挿絵画家としての半古のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの梶田半古 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS