受験勉強について
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20歳の9月20日(1986年9月20日)に受験を決意したという肩書きであるが、1998年の著書には、1986年1月1日(高校卒業10か月後、大学合格の1年以上前)の日付がついた写真でこたつで勉強している姿が載っているものがある。同著は、1991年の著書を加筆訂正したものであるところ、1991年の著書での当該写真はズームしており日付部分は切られていたが、1998年の著書では写真全体が載っており日付部分が現れた。 ほとんどの著書では当初の偏差値を25と称しているが、中には当初の偏差値を28と称している著作もある。 現代文の勉強法として、「朝の2時間。俺は朝日新聞の社説をノートに書き写していった。(中略)4カ月間、毎日必死にそれを続けたんだ。(中略)その時のノートをいまだに捨てずに取ってあるよ」と述べて、当該ノートの見開き写真を載せている著書が複数あるが、ノート左上に書いてある日付が1991年の著書では昭和58年4月15日、1998年の著書では昭和58年4月30日であり、いずれも吉野が高校2年生のときの日付である(いずれも日付は不鮮明だが、書き写されている内容がその日の朝日新聞の社説と一致。その後も2007年著書と2011年著書で「朝日新聞の社説を毎日写したノート」としてノートの見開き写真を載せているが、写真のピクセル処理が粗く判読不能)。 受験勉強を始めたきっかけについて、当初は概ね、“8月、給料が30万円を超えたので別れた彼女に久々に電話したが、大学くらい行ってくれないとと言われてとりあえず大学受験を決意 → 元家庭教師に私塾を紹介してもらい通うが授業が分からない → 一度は大学を諦める → 「忘れもしない9月20日」に再度電話するも彼女の態度は変わらず、専修大学に通っている現在の彼氏の話をされる → 9月21日、彼女とその彼氏が車に同乗しているところを目撃して受験を決意” というものであったが、別の機会では、“9月19日、10カ月ぶりに別れた彼女に電話して給料が上がったことを告げるとやり直そうかと言われた→ 彼女曰く専修大学の彼氏とは別れたが今日は女友達と泊まるかもしれないので今からは会えないということで翌日会うことに → 9月20日、待ち合わせ時間の直前に彼女と大学生の彼氏が車に同乗しているところを目撃して受験を決意 → 同20日、元家庭教師に電話して私塾を紹介される”と発言しており、日付や時系列が変化している。 複数の著書で、9月23日の模試では国語の偏差値が25で12月17日の全国総合模試(代ゼミの模試と述べている)は86で全国3位と述べられているが、模試の成績表は示されておらず、その年の代々木ゼミナールの全国総合模試は12月21日に開催されており、そもそも1986年12月17日は平日(水曜日)であり、代ゼミで模試は開催されていない。 上記以外の模試では、旺文社の模試で92、駿台の模試で87~88を取ったとも発言しているが、吉野が受験生だった年の旺文社と駿台の私大型全国模試は11月9日と11月16日に終了している。他方、当初の著書では「11月の模試では、国語が65」と述べていた。 1日の勉強時間について、90年代、「22時間」および「20時間は勉強」と表現していたが、2006年の著書では「一日20時間勉強した日も少なくない」となり、2008年の著書では「一日20時間近い日もあった」という表現になっている。また、連続で寝なかった時間についても、86時間と書かれているものと70時間と書かれているものがある。 当初の著書では、大学受験を決意したときには小学校で扱う内容のことも知らなかったことが書かれている(例「『ミナモトノヨリトモ?誰ですか、それ』『1192年?何かあったんですか』。ふざけているわけじゃなく、ほんとうに知らないのだ」)が、2008年の著書では「小学校のときは天才と言われていた」、2009年の著書でも「小学校までオレはものすごく成績が良かった。クラスのいちばんっていえば、オレか、もしくはその藤田って、まあそういう関係だった」として小学時代には成績が良く中学受験(栄光学園と述べている)をしたエピソードが書かれている。 12月の最終模試が終わっても学力が伸びることを述べる際、自身の学力について「12月の時点で、日本史の偏差値は55。(中略)最後の模試といったって、それで終わりじゃない。そこからが勝負だ。今から思えば、もし2月に模試を受けていたら、日本史も偏差値75は超えていたはずだ」と仮定に基づいて推測していたが、別の機会では「日本史なんか、最後75までいった」「日本史もね75,6はいったんだよね、最後」と発言するなど既成事実になっている。なお、「日本史は、安土桃山時代はあまり出ないから教科書くらいしかやらなかった」とも述べている。 上記の12月17日の模試で国語が全国3位だったと書かれているが、最近の著書では「生まれて初めて書いた小論文が全国で3番だった」とも書かれている。 1月15日の成人式のパーティに参加せず勉強したというエピソードに関して、90年代の著書では「アキノブの家に行って、パーティのことを忘れるように、ただ勉強に打ち込んだ」「15日には、オレはパーティのことを忘れるために、塾で友だちになった伊藤章伸のところで勉強することにした」と友人宅で過ごしていた内容であったが、2008年の著書では「おれは成人式に行くのをやめた。(中略)近くの図書館に向かった。(中略)夜の8時まで図書館にいて家に帰った」と図書館で過ごしていた内容に変化している。 上記エピソードの中にあるパーティに行かなくて済むようにスーツを破ったことに関して、そのスーツの値段を30万円としているものと20万円としているものがある。 上記のエピソードについて、90年代の著書では「1月14日、前日になってふと考え込んでしまった。(中略)オレは20数万円のスーツをビリビリに破いて燃やしてしまった」「1月14日、20万円の新調のスーツをズタズタに引き裂く」と、1月14日にスーツを破ったことになっていたが、2007年の著書では「1月15日に、おやじとおふくろにダーバンのスーツを買ってもらった。(中略)気がつくと、オレはおやじとおふくろが買ってくれたスーツをハサミでズタズタに切っていた」と書かれ、1月14日時点でそのスーツは持っていなかったことになっている。さらに、その2年後の著書では「スーツも20万円ほどするような高級品を数カ月前から新調していた」と再び変化している。
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