反「纏足」運動
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宋代に始まった纏足の習慣は清代になるとより普及し、肉体労働が必要な場合でなければ下級階層にまで広がった。特に都市部では、大きな足の女性は田舎育ちであると軽蔑され、良い結婚を求めるならば小脚が必要とされた。纏足は漢族の風習であり、満州族に対する漢文明の象徴としての意味合いも持っていた。満州族である清朝はこれを禁止したものの、結局は滅びることはなく、清代を通して存続した。 反纏足の言論はたびたび清代の知識人や宣教師によって唱えられ、太平天国の乱において纏足禁止の令が出たこともあったが、本格的に反纏足活動が始まったのは1883年の康有為による「不纏足会」結成であるとみなされることが多い。1895年には、イギリス人のリトル夫人(英語版)によって「天足会」が設立され、西洋人女性10人とともに纏足解放活動に着手した。天足会は、纏足はやめるべきことを説く文章を配布したり、西太后への上奏文の提出などを行い、この活動は一部の知識人から肯定的な反応を受けた。 その後、中国人による反纏足運動が本格化するのは戊戌維新期で、梁啓超が「戒纏足会叙」を記して知識人に大きな影響を与えた。 中国の積弱は今日頂点に達している。国の基礎を強化するには人材が必要で、そのためには幼児教育が、幼児教育には母としての道が、母としての道には女子教育が必要である。世界はいま升平の世に入っており、アフリカ、インド、ヨーロッパでは多くの悪習(アフリカ・インドの頭蓋変形、ヨーロッパのコルセット)が除かれようとしている。いま頼氏・陳氏の二人が人々をこの魔習から救うべく、戒纏足会を作った。30年後にはきっとみながこの二人を祭っていることだろう。 — 梁啓超、「戒纏足会叙」 こうして、1898年に本格的に不纏足会が設立されると、その運動は急速に広がり、会員数は30万人にも達したという説がある。不纏足会は、纏足をしない女性に対する結婚を保証するという方法を用いて、纏足からの脱却を試みた。戊戌維新期に纏足運動が一気に広まった理由としては、従来は纏足禁止の根拠としては人道的、衛生的、医学的、キリスト教的な観点が挙げられていたが、この時期には纏足と国家存続が結び付けられるようになり、反纏足運動が士大夫の議論に取り込まれるようになったことが考えられる。 従来、纏足は封建的社会の女性抑圧の象徴とみなされ、纏足からの解放は太平天国の乱と並んで近代女性解放運動の画期的な出来事であると捉えられてきた。しかし、ドロシー・コー(英語版)は、封建的・家父長的・抑圧的な「中国の伝統」は五四新文化運動・共産党革命・西洋フェミニズム研究の交差によって生み出された考え方であるとし、「纏足」に対するこうしたイメージを塗り替え、長年にわたって各地で育まれてきた纏足文化の多様性を明らかにした。 同時に、反纏足運動を「女性解放運動」としてだけ見ることにも異論が提出されるようになった。たとえば、戊戌維新期の反纏足運動は徹底した男性中心の運動であり、維新派の人々は纏足に反対しながらも烈婦は顕彰し、国家に対する責任を女性に転嫁し女性を生育の道具とみなしたという見方もある。反纏足運動は、国家に奉仕する良妻賢母を創出するためのものであり、女性に纏足に代わる新たな束縛をもたらすという側面もあった。
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