反「新体制」
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「アブドゥル・ハリス・ナスティオン」の記事における「反「新体制」」の解説
権力の座から滑り落ちると、ナスティオンは新体制に対する政治的反対者としての立場を強めていった。 1970年代末にはスハルト政権は民衆寄りの姿勢を改め、権威主義的になった。そして腐敗した。この時期になると多くの者が大っぴらに新体制を批判する声を上げるようになった。1977年に総選挙が実施された後には、スハルトを支持するゴルカル党による不正選挙があったとの声が上がった。ナスティオンは新体制内のリーダーシップは危機的であると語った。 1978年7月には元副大統領モハマッド・ハッタとともに、憲法意識研究協会 (YLKB) を立ち上げた。スハルト政権はすぐに対処し、1979年1月に予定されていた YLKB の第1回会合の開催を許さなかった。ナスティオンと YLKB は諦めなかった。1979年8月には国会議員も含めて何とか会合を開くことにこぎ着けた。おそらく、この会合に国軍メンバーも参加していたことは明らかである。この会合でナスティオンは、新体制がパンチャシラと1945年憲法を十分に履行していないと批判した。 スハルトはそうした批判を受け付けなかった。1980年3月27日の国軍会議で演説を行なったスハルトは、国軍選出議員は国会内の議席を死守し、パンチャシラと1945年憲法を支持するゴルカルのような勢力と連携すべしと語った。1980年4月16日、陸軍特殊部隊 (Kopassus) 設立記念日に際しての演説でも、これと同じようなことを語っている。その中でスハルトは、汚職の指摘に対しては否定し、必要があれば、最高国民協議会 (MPR) で憲法改正に必要な3分の2の多数派議席を確保することが妨げられるというのならば、MPR 議員を誘拐することも厭わない、と語った。 ナスティオンは、体制に異議を申し立てる人々は大きな声明を発するべきであると決意した。スハルト体制に不満を抱く国軍関係者(元ジャカルタ市長アリ・サディキン、元警察長官フゲン・イマム・サントソ、元国軍参謀副長ヤシン)を呼び寄せ、元首相モハマッド・ナシールとブルハヌディン・ハラハップ、非常事態内閣時の首相シャフルディン・プラウィラヌガラもこれに参加した。政府に異議を唱える多くの著名人とともに、彼らは一枚の請願書に署名した。これはのちに、署名者が50人に上ったことから「50人請願」 (Petisi 50)として有名になるものである。 請願書は1980年5月5日に署名され、5月13日に国会に送付された。スハルト政権に対しては、スハルト個人の目的追求のためにパンチャシラを曲解するのを止めるようにと要求し、そして国軍に対しては、ゴルカル支持をやめ、政治に中立的になるよう求めていた。国会では、とくに開発統一党 (PPP) とインドネシア民主党 (PDI) の議員たちがこの請願書を深刻に受け止め、その論点に答えるようにスハルトに迫った。スハルトは1980年3月27日、4月16日の演説でこれに答えているから十分だと返答した。付け加えてスハルトは、もし何らかの問題があるのなら、国会は国政調査権を持ち出せばよいと答えた。すると野党議員たちは沈黙した。国会で国政調査権を持ち出しても、多数派のゴルカルによって拒否されてしまうことを知っていたからである。 ナスティオンたち署名者に対して、スハルトは移動制限、商取引の禁止措置を執り、これによって署名者たちは生活するのも苦しくなった。
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