南米時代
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「フアン・マヌエル・バルガス」の記事における「南米時代」の解説
2001年、当時17歳であったバルガスはユニオン・ミナスの経営状況の悪化のためにウニベルシタリオ・デポルテスに引き戻され、同クラブに正式に所属した。同時期のトップチームには後のペルー代表監督ホセ・デル・ソラールもプレーしており、影響を受ける。当時のトップチームにはペルー代表のメンバーが揃っていたこともあり、バルガスは所属後1年間はプレー機会を与えられなかった。しかし、ウニベルシタリオ・デポルテスの経営状態も悪く、2002年にはトップチームに所属する選手数名がストライキを起こし、それを受けてクラブが給料の安い若手選手を中心にチームを再編成、バルガスに出場機会が巡ってくる。2002年11月24日にホームスタジアムであるエスタディオ・モヌメンタルで行われた対シエンシアーノ戦でプロデビューを果たす。そのデビュー戦は、62分に40メートルのロングシュートを決め、3対2の勝利に貢献するなど衝撃的なものであった。その後はレギュラーとしてプレーを重ね、3シーズンで72試合に出場、8ゴールをあげた。 2004年に国内リーグでの活躍が認められ、21歳でアルゼンチン1部リーグに所属するCAコロンに引き抜かれる。この頃にプレースキッカーとしての技術が向上し、シーズン最終戦の対ボカ・ジュニアーズ戦では、後のアルゼンチン代表のゴールキーパーロベルト・アボンダンシェリを破る印象的な直接フリーキックを決めている。同クラブで2シーズン過ごし、57試合出場、5ゴールという活躍をした。しかし個人の活躍とは裏腹にクラブは低迷し、イングランドプレミアリーグのクラブからのオファーもあったことから、さらなる飛躍を求めたバルガスはヨーロッパに活躍の舞台を移すことを決心する。
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南米時代
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「アルフレッド・ディ・ステファノ」の記事における「南米時代」の解説
18歳の時に4部リーグでプレーし始め、3部、1部と昇格し、1945年にCAウラカン戦でトップチームデビューした。しかしトップチームではアンヘル・ラブルナら前線に優秀な選手が揃っていたことから、1946年にウラカンへレンタル移籍した。ウラカンでは25試合に出場して10ゴールを記録し、リーベル・プレートとウラカンとの試合では試合開始15秒で得点を挙げた。これらの活躍により、その翌年にリーベル・プレートへ復帰した。 ディ・ステファノはアドルフォ・ペデルネラを移籍へと追いやり、そのシーズン27得点を挙げ得点王となる。その内の1点はペデルネラが移籍したCAアトランタ(スペイン語版)相手にアウェーで決めたものであり、その敗戦でアトランタは降格が決定。試合後に相手サポーターからの襲撃を受けて病院に運ばれた。1947年の南米選手権において、ボリビア戦でアルゼンチン代表デビューを果たすと、62分に初得点も記録。同大会ではコロンビア戦でのハットトリックを含む6得点を奪って優勝に貢献し、最優秀選手にも選ばれた。リーベル・プレートでは、2度リーグ優勝を果たした。 1949年のシーズン途中、給料問題や労働条件をめぐるゼネラル・ストライキによりリーベル・プレートを退団。1948年に創立したばかりであり、当時まだFIFAに加盟していなかったコロンビアリーグのミジョナリオスFCへ移籍した。当時のミジョナリオスは地元の財界人の出資によって経済力が非常に強く、リーベル・プレートで共にプレーしたペデルネラら有力選手を多く抱えており、"Ballet Azul"(青いバレエ)の異名を持っていた。シーズン途中からの参加であったが、移籍後初シーズンに15試合で16得点を挙げ、クラブのリーグ初優勝に貢献。ミジョナリオスでは4シーズンで292試合に出場、267ゴール記録、1951年(31得点)、1952年(20得点)には得点王になり、3度リーグを制覇したほかコパ・コロンビアなどのタイトルを獲得した。この活躍によりコロンビアサッカー連盟からのコロンビア代表への強い要請を受け(当時は複数の国の代表でプレーが可能だった)、コロンビア国籍を取得しコロンビア代表として4試合に出場したが、FIFAから正式に認められることはなかった。 1952年にミジョナリオスは親善試合のためにスペイン遠征をした。すでにミジョナリオスのスポークスマンも務めていたディ・ステファノは試合前にミジョナリオスの会長、レアル・マドリードの会長サンティアゴ・ベルナベウと共にラジオに出演。ベルナベウは、この時の感想を「あの男は名選手の匂いがする」と地元記者に語った。ミジョナリオスのほかにノルウェーのクラブであるノルシェーピングも親善試合に招かれ、地元マドリードを本拠地とするレアル・マドリードを含めた3つのクラブで三者間トーナメントが行われた。ノルシェーピングとの試合は2-2の引き分けに終わったが、ミジョナリオスの2得点は共にディ・ステファノによるものであった。レアル・マドリードとの試合では4-2で勝利し、ここでもまた2得点を決めた。この活躍によってベルナベウはディ・ステファノの獲得を目指した。しかし、当時FCバルセロナのチーフスカウトをしていたジョゼップ・サミティエールもレアル・マドリード時代のコネクションでその試合の観戦チケットを入手しており、バルセロナも同選手の獲得に興味を示した。この2クラブの激しい争奪戦の末、1953年にレアル・マドリードへと移籍した。 最初に移籍話を持ちかけたのはバルセロナであり、1954年までディ・ステファノの保有権を持っていたリーベル・プレートに400万ペセタを支払った。その後、レアル・マドリードは同じようにミジョナリオスに150万ペセタを支払った。この件に関して、FIFAは先に交渉を行ったバルセロナの取引を認めた。しかし、その直後にスペインサッカー連盟は外国人選手の移籍に関する規約を改正し、バルセロナへの移籍を阻止。当時のバルセロナの会長であるエンリック・マルティ・カレト(スペイン語版)はマドリードへ赴いてベルナベウと話し合いの場を持ち、ユヴェントスFCへの移籍という条件と共にディ・ステファノを手放すことを容認した。その対談後にスペインサッカー連盟はレアル・マドリードとバルセロナで交互に1年ずつプレーさせる共同保有の取引を持ちかけた。この取引を承諾したカレトはカタルーニャ州のメディアから大きなバッシングを受けて辞任。バルセロナの選手として出場した2つの親善試合であまり活躍できなかったこともありバルセロナはこの取引に応じず、レアル・マドリードから550万ペセタを受け取ることによって選手の全保有権を譲渡した。
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