区分論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:57 UTC 版)
『日本書紀』は内容・語句・音韻など様々な観点から各巻をいくつかのグループに分類できることがわかっており、多くの学者が区分論を展開している。以下、主として坂本太郎と森博達の著作を参考にまとめる。 『日本書紀』の編纂は恐らくは長い期間と複数の撰修者の手によったと見られ、巻によって分担して編集されたものと考えられる。この結果として、担当した人間の漢文能力、筆癖、使用語句の特徴などが各巻に反映されることとなった。現代の学者は様々な着眼点によってこれらの特徴を洗い出し、いくつかのグループに分類する区分論を発達させてきた。区分において特に重要な指標となるのは同じような語句の使用傾向や用いられている万葉仮名の日本語と漢字音の対応(音韻の対応)、そして漢文の文法的誤りや日本語独特の発想による文章(和習)の分布などである。 当初の区分論は使用語句・仮名字種・分註件数の偏在などに着目して行われ、『日本書紀』が巻1系と巻14系に二分できることが明らかにされていった。森博達は、区分論の鏑矢となったのは岡田正之であり、岡田の遺稿『近江奈良朝の漢文学』(1929年)を『日本書紀』区分論の幕開けと評価している。1934年には福田良輔が分註の「之」字の用法に着目した語法分析による区分論を開拓した。藤井信夫は歴代の即位定都(神武天皇の場合の「辛酉年、春正月、庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮」のように、即位に伴って宮について記されている記事)の書き方によって『日本書紀』を10のグループに分類し、鴻巣隼雄は「祖先」を意味する語として「始祖・皇祖」が用いられる巻(巻3-13、巻22-27)と、「先」が用いられる巻(巻14-21)に分類した。これらの区分論は細分化の程度に差はあっても、異なる着眼点によって分類されたもの同士の間で概ね一致した結果が得られている。区分論のいくつかの例を以下に示す。 様々な区分論による区分巻123456789101112131415161718192021222324252627282930即位定都の表記法による区分(藤井)1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 「祖先」を意味する語による区分(鴻巣)- - 「始祖」「皇祖」 「先」 「始祖」「皇祖」 - - - 歌・助詞・引用等の形式による区分(太田)- - 伊 呂 イ ロ - - - 万葉仮名字種による区分(西村)- - I II - - I II I II 万葉仮名漢字音による区分(森)β α β α β - この表で神代を扱う巻1、巻2が区分を割り振られていない例が多いのは、この2巻は分註を通じて別書から多数の引用文を載せているために他巻と異なり巻内の文章の性格が一定しないことによる。 区分論において近年とりわけ注目されたのは森博達による分析である。森は歌謡などを表記する万葉仮名に用いられている漢字音の音韻の分析によって『日本書紀』を2つのグループ(α群とβ群)に大別することができることを論証した(30巻には歌謡がなく、区分していない)。森の学説は近年の区分論における大きな進展であり、区分論に触れる際にはそれをどのように評価する場合でも大抵の場合言及される。 森による分析でα群に使用されている万葉仮名の漢字音は唐代北方音(漢音)に依拠しており、β群のそれは倭音・複数の字音体系が混在していることが明らかになっている。そして森はさらにそれを発展させ、β群に和習が集中すること、漢文の初歩的な文法・語彙の誤りが頻出することなどから、β群は非中国語話者が主筆担当したと推定している。逆にα群では漢文の誤りが少ない事、和歌の採録時日本語の清音と濁音を区別できていないこと、日本の習俗に精通していないことがわかることなどから、中国系の渡来1世が主たる述作にあたったと結論している。さらにα群・β群内の混在(α群の中に和習の強い文章が混入している)や、特定の表現が頻出する筆癖などから、本文完成後の加筆や潤色等の編纂過程の手掛かりが得られるとしている。
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