北辰会の設立に至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 22:15 UTC 版)
「北樺太石油」の記事における「北辰会の設立に至るまで」の解説
艦船の燃料に石炭を使用していた日本海軍は、20世紀に入ると重油への移行を進めた。日露戦争末期の1905年(明治38年)に樺太を占領した際には、海軍は西海岸の石炭を調査したものの石油については積極的に調査を行わなかった。しかしその後、1908年(明治41年)に石炭・重油混焼の巡洋戦艦「生駒」を建造し、八八艦隊計画では重油を主燃料、石炭を従とするなど、石油資源への関心を高めていった。 1912年(明治45年)、クレイの支那石油会社から日本での販売権を打診されていた松昌洋行の山本唯三郎が、インターナショナル石油顧問の石川貞治に依頼し、海軍の便宜を受けて現地調査を実施した。北樺太油田は新潟や北海道の油田より優れているとの報告書を作成するが、日本企業は関心を示さなかった。石川は、1916年(大正5年)に桜井彦一郎、大隈信常、押川方義らを通じて大隈重信に働きかけ、海軍に1万円の助成金を要望したが断られる。同年、桜井はロシアに行き北樺太油田の日露共同開発の内諾を得て、久原鉱業の久原房之助の後援を得ることになったが、1917年(大正6年)のロシア革命勃発により中断を余儀なくされた。 その後も桜井は活動を続け、1917年10月にウラジオストクへ行き、北樺太西岸で炭鉱経営を行っていたイワン・スタヘーエフ商会を紹介される。同社は、セカンド・サガレン・シンジケートとロシア極東工業の利権が1918年までに消滅することに着目して支配人バトゥーインを日本へ派遣し、大隈重信に日露合弁の石油会社設立を打診した。大隈は久原房之助を紹介し、1918年5月に久原鉱業とスタヘーエフ商会の間で合弁契約が締結された。同年、久原鉱業は北樺太に調査隊を送り、北樺太油田が有望であるとの結果を得たが、オムスクの臨時全ロシア政府はなかなか許可しなかった。なお海軍も1918年9月に宮本雄助機関中佐を北樺太に派遣。宮本は日本人として初めてオハ油田の調査を行い、有望との報告を行った。この間、日本のほか英米資本も極東ロシアでの利権獲得に向けて行動していたことから、日本政府は1919年(大正8年)4月1日に北樺太の油田・炭田開発について、日露合弁で進め他国を排除し、国内企業の協同を図ることと政府援助の検討を閣議決定した。そして、従前から広く民間企業を集め事業を進める方針を打ち出していた海軍の働きかけにより、5月1日、久原鉱業、三菱商事、大倉商事、日本石油、宝田石油の5社が石油開発シンジケート「北辰会」を設立し、久原とスタヘーエフ商会の契約を引き継いだ。 北辰会はスタヘーエフ商会による鉱区出願が未許可であったものの、ロシア官憲の了解を得て試掘作業に着手した。しかし、1920年(大正9年)にニコラエフスクで赤軍パルチザンに日本人が虐殺される尼港事件が発生し、北辰会の作業地バターシン(ボアタシン、ロシア語: Боатасин)にもパルチザンが襲来するおそれが生ずると、北辰会は作業を中止し徒歩で1ヶ月かけて南樺太の散江へ撤退した。同年8月、日本軍は同事件の賠償を将来正当な政府が行うまでの「保障」として北樺太を軍事占領し、油田へ守備隊を派遣した。北樺太に軍政を敷いた日本政府は、9月28日に北樺太の油田・炭田開発方針を閣議決定し、海軍の指導監督下で北辰会は作業を再開した。 1922年(大正11年)には北辰会に三井鉱山と鈴木商店が加わり、「株式会社北辰会」へ改組し、日本石油の橋本圭三郎が会長に就任した。北辰会は各地で地質調査と試掘を行い、1923年(大正12年)にオハで採油に成功。翌年には海軍が初めて日本へ原油5,440トンを搬入した。
※この「北辰会の設立に至るまで」の解説は、「北樺太石油」の解説の一部です。
「北辰会の設立に至るまで」を含む「北樺太石油」の記事については、「北樺太石油」の概要を参照ください。
- 北辰会の設立に至るまでのページへのリンク