劇団たんぽぽ - 映画俳優時代
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「水の江瀧子」の記事における「劇団たんぽぽ - 映画俳優時代」の解説
帰国した瀧子に松竹はしきりに歌劇出演の打診をし、瀧子は嫌々ながら客演の形で舞台に立った。日中戦争が行われている戦時下において風紀の引き締めが行われていたことから、当局より男装禁止が通達されており、女役としての出演であった。またこの頃新派の舞台にも立ち、水谷八重子、井上正夫と共演している。 松竹歌劇の方では、1941年12月の「マレー作戦」により大東亜戦争が勃発し、イギリスやアメリカ、オランダやオーストラリアを相手に、日本軍は各地で戦勝を続けたものの、戦時下となったことから上演作品の内容に厳しい制限が課されるようになった上に、娯楽を自粛する雰囲気となったこともあり観客が激減した。そうした折り、当時瀧子のマネージャー兼恋人のようになっていた松竹宣伝部の兼松廉吉が新たな劇団創設を打診した。これを容れた瀧子は1942年12月に自身の劇団「たんぽぽ」を組織。翌1943年1月に15年間過ごした松竹を離れ、邦楽座で劇団「たんぽぽ」としての旗揚げ公演を行った。たんぽぽは今東光が命名した。 旗揚げ当初は元松竹歌劇の団員が多く、「少女歌劇の亜流」扱いされたこともあり評判は良くなかった。その後、堺駿二、有島一郎、田崎潤といった男性俳優が加わった後、4月にニコライ・ゴーゴリ作の戯曲『検察官』をミュージカル化した『おしゃべり村』が大当たりし、同作をもって全国各地で公演を行った。しかし、戦時中のために不要不急の移動が自粛するように通達されていたこともあり、地方周りでは有島が大尉、瀧子が中尉の「軍属」という身分になっていた。 その後1945年に入ると日本軍の劣勢が決定的になり、春になると日本本土に対する連合国軍機の空襲や艦砲射撃などが行われるようになり、空襲中にも上演を行っていたが、群馬県太田市では工場などを目標にした大規模な空襲に遭遇し、翌日の新聞に「"たんぽぽ"全員爆死」と誤報されたこともあった。 1945年8月に終戦し、以後は交通網の混乱などから渋谷の映画館などで公演を行っていたが、翌1946年、当時問題小説とされた『肉体の門』の上演を巡り、上演反対を主張する瀧子と賛成派が分裂。賛成派は新たな劇団「空気座」を旗揚げし、たんぽぽには瀧子、兼松、朝鮮人俳優の3名のみとなった。その後は「喜劇王」榎本健一率いる「エノケン一座」の助力を受けながら公演を続け、空気座に移った有島なども後に戻ってきたものの、1948年1月をもってたんぽぽは解散した。その後は国際劇場でのショーなどに出演していたが、1948年に大映と契約して出演した映画『花くらべ狸御殿』が大ヒットし、以後立て続けに10本ほどの映画に出演した。『花くらべ-』は劇団たんぽぽとほぼ同じメンバーに月丘夢路、喜多川千鶴を加えて舞台化され、全国を巡業して好評を博した。 1952年、兼松が松竹のスター俳優鶴田浩二と共に「新生プロダクション」を設立。瀧子も新生プロに所属したが、瀧子によれば「ホモじゃないんだけど、それに近いような男同士の友情も大事にする人」だった鶴田が、「水の江君をとるか、僕をとるか」と兼松に迫った。悩む兼松に、瀧子は「鶴田さんはうんと人気があって、こっちは落ち目のほうだから」と引退を決意。公には舞台からの引退と発表し、1953年6月6日より20日まで松竹歌劇団で『さよならターキー・輝く王座』が催された。瀧子は『タンゴ・ローザ』や『狸御殿』など過去の名作を余すところなく演じ、また十七代目中村勘三郎、二代目市川猿之助、花柳章太郎、辰巳柳太郎、高峰三枝子、木暮実千代、淡島千景、京マチ子、灰田勝彦、淡谷のり子、服部良一、渡辺弘といった面々が日替わりで客演、10日連続で1万人以上を動員する盛況となった。
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