前方後円墳体制
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前方後円墳体制(ぜんぽうこうえんふんたいせい)とは、古墳時代前期に現れた定型化した前方後円墳の造営にみられる政治秩序。考古学者都出比呂志によって1991年に提唱された概念。なお、広瀬和雄は「前方後円墳国家」、近藤義郎は「前方後円墳秩序」の名称で同様の概念を提唱しているが、論者によって主張の力点が異なり、特に国家形成論の観点からは意見に対立がみられる。
概要
都出比呂志は、奈良県桜井市の箸墓古墳をはじめとする定型化した前方後円墳の造営をもって古墳時代の始まりとし、古墳時代は、その当初からすでに国家段階に達していたとして、葬制の定型化にみられるような一元化された政治秩序を前方後円墳体制と呼ぶべきだと主張した[1][注釈 1]。
広瀬和雄は、日本列島各地に展開した前方後円墳の特質として「見せる王権」としての可視性、形状における斉一性、そして、墳丘規模に顕現する階層性の3点を掲げ、前方後円墳を、大和政権を中心とした首長層ネットワークすなわち「前方後円墳国家」と呼ぶべき国家の表象であると論じた。そして「前方後円墳国家」とは、広瀬によれば、「領域と軍事権と外交権とイデオロギー的共通性をもち、大和政権に運営された首長層の利益共同体」[2]と定義されている。また前方後円墳と前方後方墳との間には階層性が存在し、前方後方墳は政治的に劣位の二次的なメンバーの墓であるとしている[3]。
近藤義郎は、前方後円墳の成立の歴史的意義について「畿内中枢や吉備を中心とする倭の各地の進んだ部族首長達が、対内的・対外的必要から集まり、それぞれの狭い祖霊の世界、つまり、地域ごとの祭祀的・政治的世界から抜け出し、前方後円墳の世界として列島の多くの部族集団を祭祀的・政治的に結びつけた」[4]として、このような「倭的世界の形成」つまり「前方後円墳秩序の創出」によって日本列島各地の部族首長に明確な格差が持ち込まれたとしている[4]。
都出の提唱した「前方後円墳体制」の概念は、古代史研究や考古学研究において重大な提案であり、当該分野に関わるほとんどすべての研究者に影響をあたえた。呼称もまた、提唱者による命名である「前方後円墳体制」が広く踏襲されている。
渡辺貞幸は、弥生時代の末葉に弥生墳丘墓が地域ごとに独自な形式で成立して地域ごとの祭祀的世界や政治的勢力が形成されていたのに対し、古墳時代に入ると前方後円墳の巨大化がみられ、突出部は前方部に整えられていくとして、さらに、墳丘の形と規模において格差が明瞭に現れることに注目して、「前方後円墳・前方後方墳・円形・方形といった前方後円墳体制」を形成するとしている[5]。
また、石野博信は、前方後円墳を3世紀中葉に大王墓として採用されて6世紀末までつづいたとするが、事実としては継体朝にいて反乱の将であった筑紫国造磐井も前方後円墳を造営していたことから「前方後円墳体制」は首長層の精神的紐帯にすぎず、祭祀の内容も実際には大きく変質していったと述べている[6]。
藤田憲司は、「巨大前方後円墳の築造が続いた約350年間の当初から「全土的」に一体的な体制が成立したという想定は、多くの問題点を抱えており、同意できない。「古墳時代」中期までは各地に大きな前方後円墳を築く権力構造が成立しており、「近畿中央部の首長と地方の首長との間にあったのはせいぜい同盟的な」関係であったろう」という指摘は一つの指標になると思う。」と述べている[7]。
一方、天皇陵の形状および規模、基数および分布、築造の時代推移、祖型および最古型の所在について、全国的な統計データからみた場合、「前方後円墳体制」の実在は確認できないとの指摘も出されている[8]。
脚注
注釈
- ^ 大平聡は、前方後円墳に表象される政治体制の確立と、その連続的発展を説く限りでは津出の説は支持されるものの、その規模の違いをもって全国の首長との間の支配・従属関係をまで読み取る説には必ずしも与しえないとし、むしろ規模のうえでは優越関係にあるにしても同一の墳墓型式を共有せざるをえなかった点こそ考慮されるべきであり、支配関係ではなく、連合・同盟関係ととらえるべきであると主張している。大平(2002)pp.199-200
出典
参考文献
- 石野博信「長突円墳(前方後円墳)は大和王権の政治的記念物か」『季刊考古学』 第90号、雄山閣、2005年2月。
- 大平聡 著「世襲王権の成立」、鈴木靖民 編『日本の時代史2 倭国と東アジア』吉川弘文館、2002年7月。ISBN 4-642-00802-0。
- 近藤義郎『前方後円墳に学ぶ』山川出版社、2001年1月。ISBN 4-634-60490-6。
- 都出比呂志「日本古代国家形成論序説-前方後円墳体制論の提唱-」『日本史研究』 343巻、1991年。
- 広瀬和雄『前方後円墳国家』角川書店〈角川選書〉、2003年7月。ISBN 4-04-703355-3。
- 藤田憲司「日本前方後円墳時代研究課題」(2010年)
- 青松光晴「図とデータで解き明かす 日本古代史の謎 5 ~ 古墳の始まりから前方後円墳まで」、デザインエッグ社、2019年9月。ISBN 4-815-01305-5
- 渡辺貞幸 著「古墳の出現と発展」、奈良文化財研究所編集 編『日本の考古学』学生社、2007年4月。ISBN 4-311-75038-2。
関連項目
前方後円墳体制(古墳時代前期前半)
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「ヤマト王権」の記事における「前方後円墳体制(古墳時代前期前半)」の解説
文献資料においては、上述した266年の遣使を最後に、以後約150年近くにわたって、倭に関する記載は大陸の史書から姿を消している。3世紀後半から4世紀前半にかけての日本列島はしたがって、金石文もふくめて史料をほとんど欠いているため、その政治や文化の様態は考古学的な資料をもとに検討するほかない。 定型化した古墳は、おそくとも4世紀の中葉までには東北地方南部から九州地方南部にまで波及した。これは東日本の広大な地域がヤマトを盟主とする広域政治連合(ヤマト王権)に組み込まれたことを意味する。ただし、出現当初における首長墓とみられる古墳の墳形は、西日本においては前方後円墳が多かったのに対し、東日本では前方後方墳が多かった。こうして日本列島の大半の地域で古墳時代がはじまり、本格的に古墳が営まれることとなった。 以下、古墳時代の時期区分としては通説のとおり、次の3期を設定し、 古墳時代前期 … 3世紀後半から4世紀末まで 古墳時代中期 … 4世紀末から5世紀末 古墳時代後期 … 6世紀初頭から7世紀前半 この区分をさらに、前期前半(4世紀前半)、前期後半(4世紀後半)、中期前半(4世紀末・5世紀前半)、中期後半(5世紀後半)、後期前半(6世紀前半から後葉)と細分して以下の節立てをこれに準拠させる。後期後半(6世紀末葉・7世紀前半)は政治的時代名称としては飛鳥時代の前半に相当する。 日本列島の古墳には、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳などさまざまな墳形がみられる。数としては円墳や方墳が多かったが、墳丘規模の面では上位44位まではすべて前方後円墳であり、もっとも重要とみなされた墳形であった。前方後円墳の分布は、北は山形盆地・北上盆地、南は大隅・日向におよんでおり、前方後円墳を営んだ階層は、列島各地で広大な領域を支配した首長層だと考えられる。 前期古墳の墳丘上には、弥生時代末期の吉備地方の副葬品である特殊器台に起源をもつ円筒埴輪が立て並べられ、表面は葺石で覆われたものが多く、また周囲に濠をめぐらしたものがある。副葬品としては三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡などの青銅鏡や碧玉製の腕輪、玉(勾玉・管玉)、鉄製の武器・農耕具などがみられて全般に呪術的・宗教的色彩が濃く、被葬者である首長は、各地の政治的な指導者であったと同時に、実際に農耕儀礼をおこないながら神を祀る司祭者でもあったという性格をあらわしている(祭政一致)。 列島各地の首長は、ヤマトの王の宗教的な権威を認め、前方後円墳という、王と同じ型式の古墳造営と首長位の継承儀礼をおこなってヤマト政権連合に参画し、対外的に倭を代表し、貿易等の利権を占有するヤマト王から素材鉄などの供給をうけ、貢物など物的・人的見返りを提供したものと考えられる。 ヤマト連合政権を構成した首長のなかで、特に重視されたのが上述の吉備のほか北関東の地域であった。毛野地域とくに上野には大規模な古墳が営まれ、重要な位置をしめていた。また九州南部の日向や陸奥の仙台平野なども重視された地域であったが、白石太一郎はそれは両地方がヤマト政権連合にとってフロンティア的な役割をになった地域だったからとしている。
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