前方後円墳の終焉とは? わかりやすく解説

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前方後円墳の終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:56 UTC 版)

武社国造」の記事における「前方後円墳の終焉」の解説

この地域限らず6世紀から7世紀にかけて関東地方では畿内凌ぐ古墳造営され前方後円墳終焉後の方墳円墳については大王陵を凌駕するものもあるが、その詳細については必ずしも明らかにはなってはいなかった。その中で当国造の領域にある終末期大型方墳とみられる駄ノ塚古墳は特に重視され1985年から国立歴史民俗博物館による発掘調査が行われた。この発掘調査の成果のひとつに造営時期西暦610年代特定できたことがある駄ノ塚古墳は、九十九里浜に注ぐ作田川成東川)の上東岸営まれ板附古墳群構成する古墳のひとつで、西ノ台古墳不動古墳続いて造営されその後駄ノ塚西古墳造営されたものとされている。そして、北東境川東岸には胡麻手台16号墳擁する胡麻手台古墳群があり、さらに東の木戸川中流東岸には大堤蕪木古墳群が、上流東岸には小池芝山古墳群があって、この地域には後期から終末期にかけての多く前方後円墳存在している。前方後円墳以後方墳とされる駄ノ塚古墳造営時期特定されたことで、これらの古墳造営時期見直され、現在では(一部7世紀初頭造営とされるものもあるものの)6世紀をもって日本全国一斉に前方後円墳築造停止されたと考えられるようになったまた、板附古墳群胡麻手台古墳群大堤蕪木古墳群小池芝山古墳群4つ古墳群については、同時進行的に古墳造営されたものとされ、この地域にはこの時期大型前方後円墳造営した4つ勢力存在し駄ノ塚古墳造営され7世紀初めに1つ勢力収斂し国造制から律令制成立向かったことがうかがわれる。このことは当国造に限らず同じく終末期大型方墳築造した須恵国造馬来田国造印波国造上毛野国造も同様であり、墳形異なるものの大型円墳築造した无邪志国造下毛野国造にも当てはまると考えられている。

※この「前方後円墳の終焉」の解説は、「武社国造」の解説の一部です。
「前方後円墳の終焉」を含む「武社国造」の記事については、「武社国造」の概要を参照ください。

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