現在の諸説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 18:44 UTC 版)
「朝鮮半島南部の前方後円形墳」の記事における「現在の諸説」の解説
在地首長説 主な論者:田中俊明、土生田純之、金洛中、延敏洙、朴淳發、森公章、小栗明彦、申大坤 栄山江流域の在地系首長が、一定の主体性を保ったまま、それまでの形式に代えて前方後円形を採用したとする説。百済が漢山城陥落ののち南方を志向したことを受け、栄山江流域首長が百済・倭と一定の交流を取りながら自立を維持するため、百済に対するアピール(牽制)として倭の形式を採用したと推測する。また九州系の横穴式石室が存在することから、九州へ渡った栄山江流域出身者が媒介となり、北部九州と連携しようとしたとする。羅州地域の在地系古墳との対応については、在地系グループ間で交流相手が異なった結果の相違であるとして、併存性を仮定する。そのほか、倭との交流に関係なく百済の圧迫に対抗するためのモデルとして前方後円墳を模倣したとする説、栄山江流域はすでに百済の支配下にあったが漢城陥落に伴ってその支配が緩まったとする説も提唱されている。 この説に対して、前方後円形墳の多くが在地系譜のない地域に突如出現すること等が反論として挙げられる。 倭系百済官人説 主な論者:朱甫噋、山尾幸久、西谷正、朴天秀、柳沢一男 大加耶征服を見据えた百済が栄山江勢力の牽制のため派遣した、倭人(北部九州・有明海出身者)の墓とする説。前方後円形墳の分布の分散性、前方後円形墳における百済系・倭系要素の混在、『日本書紀』にある倭系百済官僚の存在が根拠として挙げられる。例えば『日本書紀』雄略天皇23年4月条には、百済文斤王(三斤王)の死去により東城王が帰国するに際し、筑紫国軍士500人が護衛に遣わされたと見える。また同書継体天皇6年条などには、下哆唎国守(哆唎国守)の穂積臣押山の名があるが、これも倭系百済官僚とする説がある。そのほか、欽明天皇紀によれば紀臣奈率弥麻沙・物部施徳麻奇牟・物部連奈率用奇多・許勢奈率奇麻・物部奈率歌非・物部奈率奇非などの倭系と見られる百済人官僚の名が知られる。そしてこのような官人の墓に比定する根拠として、前方後円形墳は在地系譜のない地域に突如1代に限って出現することから、外部からの単発的派遣が指摘される。羅州地域の在地系古墳との対応については、外部勢力により交通路の遮断や外縁部からの圧迫のため前方後円形墳が配置されたとして、敵対性を仮定する。 この説に対して、在地系古墳と前方後円形墳の間に共通点が多く存在することや、各前方後円形墳が当時の百済王陵(武寧王陵の場合で20メートル)を上回る規模を持つこと、当時の栄山江流域の百済への帰属自体が不明であること等が反論として挙げられる。 倭人説 主な論者:東潮、洪潽植 日本列島から移住した倭人の墓とする説。その中で、栄山江流域を『宋書』倭国伝に見える「慕韓」と仮定し、この慕韓が倭の影響下にあったと推測する説などがある。 この説に対して、倭人の大量移住の痕跡が見られないこと、慕韓は考古学的に実体がなく形式的呼称と見られること、栄山江流域と倭の間の交通路に大加耶・新羅が勢力を張っていたため倭の割拠は困難であること等が反論として挙げられる。 その他 林永珍は、栄山江流域から北部九州に移住した集団が、情勢の変化に伴い再び栄山江流域に戻ったと推測する。しかし考古学的な裏付けには至っていない。 都出比呂志は、前方後円墳を墓制の頂点とするヤマト王権の政治秩序として「前方後円墳体制」を提唱する中で、朝鮮半島南部の前方後円形墳についても、雄略大王期の中央集権化や継体大王期の朝鮮半島進出・交流を築造の背景として推測する。一方、これらの前方後円形墳では倭系に限らず在地系・百済系・加耶系の習俗も多重する点、円墳・方墳なども含めた墓制全体でなく前方後円墳だけの「切り出し」である点、6世紀にはすでに前方後円墳自体がヤマト王権の序列を表す意義を喪失したと見なせる点で、そのような「政治秩序」の流入とする解釈には批判もある。
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