俳優志望、漫画家デビュー
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「杉浦幸雄」の記事における「俳優志望、漫画家デビュー」の解説
1929年5月、美術学校の受験に失敗した杉浦は、父親の友人であった朝日新聞編集局長緒方竹虎や元記者の中野正剛を介し、同紙専属の漫画家・岡本一平への入門を許された。この通称「一平塾」で、のちに活動をともにする近藤日出造と出会ったほか、同門の矢崎茂四の蔵書だった『エスクァイア』『ザ・ニューヨーカー』『ル・リール』などの外国雑誌の漫画に強い影響を受けた。 「一平塾」での修業のかたわら、杉浦は一時、演劇に熱中した。当時通っていたアテネ・フランセの受講生から劇団「第三芸術座」に誘われ、1930年11月、エミール・マゾー(フランス語版)作の喜劇『ダルダメル氏(Dardamelle ou le cocu)』の主演として俳優デビューを果たした。やがて金杉惇郎、長岡輝子、飯沢匡らと学生劇団「テアトル・コメディ」の旗揚げに参画し、1931年2月、内幸町・仁壽生命講堂で行われる旗揚げ公演・トリスタン・ベルナール(フランス語版)作『自由の重荷(Le Fardeau de la liberté)』において、巡査役に内定したが、舞台の初日、父親が当時経営していた会社が倒産したことで、生家が破産。杉浦は漫画投稿の賞金で実家の家計を支える決意をして舞台を降板し、俳優になる夢を断念した。なお、杉浦と飯沢は戦後、文藝春秋漫画賞の受賞者(杉浦)と選者(飯沢)として再会している。 『ブリタニカ国際大百科事典』では、『アサヒグラフ』への投稿が掲載され、初めて賞金を得た1931年を杉浦のデビュー年としている。賞金は7円であった。1932年に、近藤日出造、横山隆一らと杉浦の自宅で会合を開き、漫画プロダクションの性格を持った若手漫画家の団体「新漫画派集団」を結成。当初は「漫画集団」という名になる予定だったが、杉浦が「野獣派などと同じように主義主張を持つグループとして」「派という文字を入れろ」と強く主張し、改められた。やがて「新漫画派集団」は、ナンセンス漫画のブームを起こす。新漫画派集団の中で特に抜きん出た横山隆一のセンスと技術に圧倒された杉浦は、「横山氏にできないもの(略)をやるしかない」「彼の女には色気がない」「女が主役の風俗漫画をかいて、女をかかせたら日本一の漫画家になってやる」と決意し、美人画をはじめとする、女性を題材にした漫画に活路を見出していった。 杉浦は1933年、一コマ漫画のキャプションを編集者側が無断で変更したことに抗議したことをめぐり、『アサヒグラフ』との関係が断絶し、収入が途絶。これを聞きつけた読売新聞社漫画部の村上修が杉浦を誘い、近藤日出造とともに同社の嘱託となり、日曜版別刷りの「読売サンデー漫画」などに執筆した。杉浦同様に横山への対抗意識を持ち、似顔絵を用いた政治漫画に取り組んでいた近藤と対称をなす、「家庭漫画」の書き手として人気を得るようになった。また、『主婦之友』1938年9月号から連載開始した『銃後のハナ子さん』→『ハナ子さん一家』が大ヒットした。この作品は後に主人公のモデルである轟夕起子主演で『ハナ子さん』のタイトルで映画化され、主題歌と合わせてヒットした。『ハナ子さん一家』は後述の応召のため1944年に連載を一旦休止し、戦後の1947年に連載再開。連載末期に映画タイトルと同名の『ハナ子さん』となり、1949年に終了した。
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