作風とその源流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 09:21 UTC 版)
朝鮮半島の百済から日本へ仏教が伝来したのは、『元興寺縁起』によれば538年、『日本書紀』によれば552年とされ(近年は538年説が有力)、いずれにしても6世紀半ばのことである。『書紀』によれば、百済の聖王(聖明王)は時の欽明天皇に釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献上した。『書紀』には、「西蕃(にしのとなりのくに)の献(たてまつ)れる仏の相貌(かお)端厳(きらぎら)し」とあり、金色燦然と輝く金銅仏に感心した様子がうかがわれる。 当時の日本では、外来の宗教である仏教を受け入れるか否かをめぐって有力者の間で意見が分かれ、崇仏派と排仏派の間で武力衝突も起きたが、結果的には崇仏派が勝利し、6世紀末から7世紀前半にかけて、飛鳥寺(法興寺)、法隆寺、四天王寺などの仏教寺院が建立された。こうした寺院の堂塔の建立や仏像の造立には、朝鮮半島からの渡来人の技術指導が不可欠であった。飛鳥時代を代表する仏師である鞍作止利(止利仏師)も百済系渡来人の子孫である。鞍作止利の作品である法隆寺金堂本尊釈迦三尊像(623年)をはじめ、同寺の戊子年(628年)銘釈迦如来及び脇侍像などに見られる様式を「止利式」と称する。止利式の仏像の様式上の特色としては、角張った面長の頭部、杏仁形(アーモンド形)の眼、微笑を浮かべるように見える口元、中国風の服制、図式的に整えられ左右相称を基本とした衣文、左右に鰭(ひれ)状に広がる天衣、蕨手状の垂髪などがある。四十八体仏の中では145 号の如来坐像、149号の如来立像、155号の菩薩半跏像などが止利式に分類される。こうした止利式仏像について、かつては北魏の仏像がその様式的源流とされていたが、北朝の北魏よりもむしろ南朝にその源流を求めるべきだとの意見もある。いずれにしても、中国南北朝時代の仏像様式が朝鮮半島を経て日本へと伝えられたものである。四十八体仏の中には、その作風や技法からみて、日本製ではなく、朝鮮半島からの将来像とみられるものも数件含まれている。143号の如来三尊像、151号の如来立像、158号の菩薩半跏像などは、三国時代の朝鮮半島製とみられている。 四十八体仏の中には止利式の諸像よりやや年代の下る7世紀後半〜8世紀初頭の飛鳥時代後期(白鳳期)の作品も多い。天武天皇(在位673 - 686)は中央集権的国家体制の基盤をかためるとともに、鎮護国家のため仏教を奨励保護し、薬師寺を建立した。この時代には、隋から初唐の様式に源流をもつ、いわゆる白鳳様式の仏像が製作された。この時期の代表的な金銅仏としては、法隆寺大宝蔵院の銅造観音菩薩立像(夢違観音)及び銅造阿弥陀如来及び両脇侍像(伝・橘夫人念持仏)、興福寺の銅造仏頭(旧山田寺薬師如来像頭部)などが挙げられる。これらの金銅仏は、明朗な表情、自然味を増した肉付けや衣文表現などに特色があり、四十八体仏のうちでは、144号の阿弥陀三尊像などに前述の諸像と共通した作風がみられる。この時期には仏像彫刻の様式も多様化し、四十八体仏中にも朝鮮半島の新羅の様式を受けたもの、飛鳥時代前期の金銅仏から日本独自の様式発展をとげたものなど、さまざまな様式の作品が存在している。中で注目されるのは、一連の童子形像である。童子形像とは、童顔で頭部が大きく、脚が短い、幼児のような体型の像で、153号の如来立像、179号の観音菩薩立像、188号の菩薩立像などがこれにあたる。
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