朝鮮半島からの渡来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:57 UTC 版)
慶長年間の慶長の役の際に朝鮮半島から島津義弘の軍勢に連れられた70人余りの被虜人は、慶長3年(1598年)、薩摩国に留め置かれた。「東市来町誌」によれば陶工・織物・刺繍・紺屋・細工師・製油・医師などいろいろな技術者であったとされ、出身別には慶尚南道の金海、昌原郡の熊川(いずれも現在の大韓民国)の住人が大部分であり、その他にも加徳島、南原城付近の人士が含まれていたとされる。 70人の被虜人のうち43人を串木野島平(現在のいちき串木野市西島平町)、10人余りを神之川(現在の東市来町神之川)、20人余りを鹿児島城下高麗町(現在の鹿児島市高麗町)に居住させた。これらの被虜人が上陸した串木野島平の照島神社付近(現在のいちき串木野市西島平町)には「薩摩焼開祖着船上陸記念碑」が建立されている。現在の鹿児島市高麗町は文政6年(1823年)の「立野並苗代川焼物高麗人渡来在附由来記」によれば、慶長3年(1598年)に島津義弘が連れてきた鹿児島前之浜に上陸した被虜人を多数居住させたことにより高麗町として町立てされたとされる。
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