朝鮮労働党創立者として
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終戦後ソ連政府は自らの指導下にある朝鮮民族の共産党員たちを、自軍の占領する北部朝鮮へ送り込んだ。彼らは当初、ソ連側の通訳官という立場に過ぎなかった。しかし彼らは絶対的な権威を持つソ連側との繋がりを武器に、やがて同胞である朝鮮人社会の主導権を握ることとなる。こうした状況は「通訳政治」とも呼ばれる。そしてその通訳たちの中心を占めたのが、かつて沿海州に暮らし、今は中央アジアの地に住む朝鮮人移住者=高麗人たちであった。ソ連からのこうした「高麗人」派遣は、計画的・組織的に行われ、党組織などについての教育を受けた高麗人たちが、続々と「母国」朝鮮の地を踏んだ。許哥誼という朝鮮式の名を名乗るようになったかつてのアレクセイ・ヘガイも、その一人であった。 彼らは権力の中枢に立った金日成――彼もまたソ連軍大尉の軍歴を持つ広義の「通訳」の一人であった――とともに、この朝鮮の地に強力な社会主義国家を建設すべく活動した。とはいえ、その幹部と目された人物たちは、社会主義者という共通点こそあれ、その出自、経歴、背景は様々であった。金日成は満州を中心に活動したパルチザン出身、朝鮮半島において長らく地下活動を続けてきたものもあれば、中国共産党の指導下にあるものもあった。その中で高麗人グループは「ソ連派」の名で呼ばれ、実務経験豊富な許哥誼はその首魁と見做された。 金日成は元々軍人であり党組織などの実務面には疎かったため、朝鮮労働党創立、朝鮮民主主義人民共和国建国に当たり中心的な役割を果たしたのは、許哥誼を初めとするソ連派の人物たちであった。新たに組織された内閣においては、許哥誼は四人の副首相の一人に就任し、後に党副委員長、党書記などを歴任した。「党問題の教授」と呼ばれたことからも分かる通り、党組織の運営は専ら彼の手に委ねられることとなった。 ソ連派は、許哥誼を初めとして、権力の中心に立つよりは専門家として一歩引いた立場から実権を握った。建国当初の各省庁の副相が、全てソ連派で占められていたことはその象徴的な構図である。一方で党においては中央委員の四分の一、政治局員の三分の一を占め、さらに各地方の責任者をソ連派で独占するなど主導権を握った。一方でそれは「派」という名に反して、出自を同じくするほかは緩やかな繋がりしか持たないグループでもあった。彼らのリーダーが許哥誼であることは衆目の一致するところであったが、それは必ずしもソ連派の党員が許哥誼個人に忠誠を誓うことを意味しなかった。とはいえ後年の金日成の糾弾に従えば、彼らは強い連帯意識を持つ厳然たる「派閥」であり、許哥誼は彼の功績によって建国された北朝鮮において、今やナンバー3の地位を占める最高幹部の一人となっていた。
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