様式と制作地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 15:45 UTC 版)
像高は123.3センチメートル(左足含む)、坐高は84.2センチメートル。アカマツ材の一木造で右手を頬に軽く当て、思索のポーズを示す弥勒像である。像表面は現状ではほとんど素地を現すが、元来は金箔でおおわれていたことが下腹部等にわずかに残る痕跡から明らかである。右手の人差し指と小指、両足先などは後補で、面部にも補修の手が入っている。 制作時期は7世紀とされるが、制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説、日本で制作されたとする説、朝鮮半島から渡来した霊木を日本で彫刻したとする説があり、決着を見ていない。この像については、韓国ソウルの韓国国立中央博物館にある金銅弥勒菩薩半跏像との様式の類似が指摘される。 韓国の「金銅弥勒菩薩半跏像」は出所不明、製作年代不明である。この韓国国立中央博物館像は、1912年に李王家が日本人美術商から入手したもので、来歴は不明である。制作地についても新羅か百済か、その他の地域であるかはっきりしない。また、同時期の朝鮮の木造仏で同型のものは残っていない。 第二次世界大戦後まもない1948年(昭和23年)、小原二郎は、本像内部の内刳り(軽量化と干割れ防止のため、木彫像の内部を空洞にすること)部分から試料を採取し顕微鏡写真を撮影して分析した結果、本像の用材はアカマツであると結論した。日本の飛鳥時代の木彫仏、伎楽面などの木造彫刻はほとんど例外なく日本特産のクスノキ材であるのに対し、広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。ところが、1968年(昭和43年)に毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影のさい、内刳りの背板はアカマツ材でなく、クスノキに似た広葉樹が使用されていることが判明した。この背板は後補ではなく、造像当初のものとみられる。この点に加え、アカマツが日本でも自生することから本像は日本で制作されたとする説がある。 朝鮮半島からの渡来仏だとする説からは、『日本書紀』に記される、推古天皇11年(603年)、聖徳太子から譲り受けた仏像、または推古天皇31年(623年)、新羅から請来された仏像のどちらかがこの像に当たるのではないかといわれている。 『広隆寺資財交替実録帳』の金堂の項をみると、安置されている仏像の中に2体の「金色弥勒菩薩像」があり、1体には「所謂太子本願御形」、もう1体には「在薬師仏殿之内」との注記がある。「太子本願御形」の像が宝冠弥勒であり、「在薬師仏殿之内」(金堂本尊薬師如来像の厨子内にある)の像がもう1体の宝髻弥勒にあたると考えられている。
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