作品の発表活動
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招待出品した主なグループ展を地域的多様性に配慮して列挙すると、ヴェネチア・ビエンナーレ(72、76、82、88、93年)、パリ青年ビエンナーレ(73年)、「日本―伝統と現代」(74年、デュッセルドルフ)、ミデルハイム・ビエンナーレ「日本の彫刻家20人」(75年、アントワープ)、「1960-78年イタリアのアーティストの映画と実験映画」(78年、パリ)、「近代イタリア美術と日本」(79年、大阪)、「70年代イタリアの造形探求」(82年、ウィーン)、「Sonsbeek ’86」(86年、オランダ)、「Chambre d’amis」(86年、ゲント)、ミデルハイム・ビエンナーレ「現代日本彫刻」(89年、アントワープ)、「フィウマーラの芸術」(89年、メッシーナ)、「独創性」(90年、グラスゴー)、「イタリアの現代美術’70‐’80」(91年、ブダペスト)、「イタリアの抽象芸術」(91年、ストックホルム)、ドクメンタ(92年、カッセル)、ミラノ・トリエンナーレ(94年)、「日本の現代美術1885-95」(95年、東京)、カッラーラ国際彫刻ビエンナーレ(98年、カッラーラ)、クレリア・ビエンナーレSPAS(99年、スイス)、「Made in Italy? 1951-2001」(01年、ミラノ)、「愛情の場所 風景-通過」(03年、ブリュッセル)、「現代日本彫刻展」(05年、宇部)、「ジョルジョ・デ・キリコ その謎と栄光」(06年、カタンツァロ)、「20世紀・21世紀美術の代表的作家の<普遍性>」(09年、カターニア)などが挙げられるが、これら以外のグループ展でも多くの作品が発表されている。 個展は1970年以降数知れず開催しているが、80年代以降は画廊に作品を置くという通常の個展形式からしだいに自由になり、個人や共同体からの要望に応えて、既存の建物や私的・公共的な施設など多様な空間条件を生かしたサイト・スペシフィックな制作に重点を置くようになった。いきおい、作品はしばしば建築的規模を帯び、ときには庭園としての構造を具えるまでになっている。現代美術でもきわめてユニークなその活動はイタリアではほとんど全土に及んでいるが、1996年にはスペインのパルマ・デ・マヨルカにあるビラール・ジョアン・ミロ財団に招かれて3相複合体の≪庭≫を設置し、より広く注目されるところとなった。このミロ財団の≪庭≫が宇宙論的構造を孕んでいることからも明らかなように、長澤のサイト・スペシフィックな制作や庭園では、多くのパブリック・アートがしばしば共同体の要望や都市空間の条件に合わせて構想されるのと違って、彼が宇宙的意志の発露と信じているイデアの捕捉がつねに先行し、それの物質的・空間的現実化のために個々の与えられた条件が考慮され活用される仕組みとなっている。この点で、長澤の規模の大きな作品は70年代初期に始まったより凝密性の強い彫刻とは本質的に変わっておらず、事実、今日でもそのタイプの小規模な彫刻の制作は旺盛に続けられている。 回顧展的な規模の大きな個展は、1988年にミラノ現代美術展示館、1993年にボローニャ市立近代美術館(ヴィッラ・デッレ・ローゼ)、同年に水戸芸術館(「天使の影」)、96年にビラール・ジョアン・ミロ財団(パルマ・デ・マヨルカ)、2009-10年に川越市立美術館・埼玉県立近代美術館・国立国際美術館(大阪)・神奈川県立近代美術館(葉山)・長崎県美術館(巡回展「オーロラの向かう所」)で行なわれたが、それらに劣らず記憶されるのは、1995-96年の「京の町家」、および2009年の「Nagasawa in Kawajima<夢うつつの庭>」である。前者では京都下京区に残る伝統的な町家が、後者では長澤の故郷川島町にある遠山記念館の古い純日本式邸宅が、それぞれの室内・内庭ともに全面的に活用されて、複数の新作がすべてサイト・スペシフィックに制作・設置された。古い和風建築様式が現代芸術家の造形と共振した稀な例として注目された。なお、09-10年の巡回展等の活動により、長澤は2009年度の芸術選奨文部科学大臣賞(美術部門)を受賞した。
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