仙台すずめ踊りの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/16 17:24 UTC 版)
全ての座標を示した地図 - OSM全座標を出力 - KML 表示 仙台城(地図)の石垣の石工として泉州・堺から仙台に来ていた職人たちが、1603年(慶長8年)の仙台城移徒式(新築移転の儀式)の祝いの席において、浮かれて跳ね踊った踊りが元になっているという。「伊達政宗の前で堺石工4人が踊った」とする記述がなされる場合もある。しかし、実際には伊達政宗の前で踊られたことを示した文書は一切存在せず、おそらく後世の創作と思われる。 その後、石工衆は仙台城下町の石切町(地図。現在の仙台市青葉区八幡2丁目の一部)にそのまま住み続けることになり、即興であったこの踊りを「はねこ踊り」と呼んで伝承していった。(以下、これを『正調雀踊り』と書く)。 『正調雀踊り』は、大崎八幡宮や石切町内の瀬田谷不動尊(石尊神社、地図)の祭礼に奉納されていたが、戦後混乱期以降は伝承者が次第に減少した。1961年(昭和36年)11月5日、途絶えていた踊りを、石切町が学区内にあたる仙台市立第一中学校(地図)の真山泰校長(当時)が、石切町の住民の記憶をもとに徒手体操の動きも加えた形で復元して『仙台・雀おどり』と名付けられた。1963年(昭和38年)9月7日には同校に「雀おどり保存会」が結成され、女子生徒が体育の授業で『仙台・雀おどり』を学び、伊達政宗に関する諸行事、地区の行事、同校の文化祭等で踊るようになった。『すずめ踊り』の名称の語源について、「踊る姿が餌をついばむスズメに似ていることから」とか、「伊達家の家紋の1つ「竹に雀」にスズメが描かれていることから名付けられた」などの説は、この頃に新たに作られたものと考えられる。 1985年(昭和60年)に第1回「仙台・青葉まつり」が開催されると、同校の生徒が参加して『雀おどり』を披露し、翌年の第2回ではそれまで輪踊りだったものをパレード形式に変更して披露した。 1987年(昭和62年)の第3回「仙台・青葉まつり」では、『正調雀踊り』伝承者の石工・黒田虎雄の指導のもと、仙台・青葉まつり協賛会が作曲家の榊原光裕や舞踊家に依頼して伝統芸能の枠を取り払って現代風の踊りとして作り直した『新・仙台すずめ踊り』を創作した。 『新・仙台すずめ踊り』は、『正調雀踊り』では1本の扇子で踊られていたものを2本の扇子を両手に持ち自由に跳ねながら踊る「ハネすずめ」と、優雅に舞う「舞すずめ」の2つが考案された。囃子についても『正調雀踊り』よりテンポを速くし、楽器に鉦を加えた。 翌1988年(昭和63年)の第4回「仙台・青葉まつり」では新・仙台すずめ踊りコンテストも開催された。このときは、17組、約300人の参加であったが、その後、年々参加する祭連や踊り手が増加し、「仙台・青葉まつり」以外でも踊られるようになった。 1990年代には、コンテスト優勝祭連などが徳島阿波踊りに派遣されるようになり、1970年(昭和45年)に観光姉妹都市を締結をして以来、仙台七夕まつりと徳島阿波踊りとの間で行われていた交流に変化をもたらした。 2003年(平成15年)には、仙台・青葉まつりとは別に「夏まつり・仙台すずめ踊り」が西公園で始まった。宮城野通りの完成に伴い、翌年から宮城野通りを会場に7月下旬に開催されている。 また、同2003年(平成15年)のみちのくYOSAKOIまつりに参加した大阪府堺市のYOSAKOIチームが、そこで踊られていたすずめ踊りを見、堺との繋がりを知って堺でのすずめ踊りの普及に尽力するようになり、2005年(平成17年)には堺石工衆の故郷である堺市に約400年振りに「里帰り」して仙台の祭連がすずめ踊りを披露した。以後、堺市にも祭連が複数生まれ、仙台の祭連が堺まつりに、堺の祭連が仙台・青葉まつりに参加するなど、両市のすずめ踊り愛好者の間の交流が始まった。 2006年(平成18年)には、「どんとロード八幡雀踊りフェスタ」が国道48号(作並街道)の八幡町地区で始まった。2001年(平成13年)の八幡町共同溝工事の完成に伴い、国道48号の八幡町区間を大崎八幡宮のどんと祭に因んで「どんとロード」と名付け、「どんとロード八幡フェスタ」が毎年開催されていたが、八幡町地区の石切町で「正調雀踊り」が伝承されてきたことに因んで、すずめ踊りを同フェスタで同時開催するようになった。
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