五月革命 - 作家同盟
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「ジャン=ピエール・ファイユ」の記事における「五月革命 - 作家同盟」の解説
『シャンジュ』誌の創刊以来、ファイユにとって文学、哲学は政治活動と分かち難いものとなり、1968年にハバナ(キューバ)とソ連を訪れ、帰国後の5月18日、ソルボンヌ大学の学生・作家行動委員会(CAEE)の結成に参加した。大学の運営、ひいては学問における権威主義的な体制・秩序に抗議する五月革命(Mai 68)の学生運動の一環として結成されたこの委員会には、ファイユのほか、作家・文芸評論家のモーリス・ナドー(フランス語版)、ヌーヴォー・ロマンの作家ナタリー・サロート、社会党の文化活動を主導した作家ベルナール・パンゴー(フランス語版)、前衛作家のモーリス・ブランショやルイ=ルネ・デ・フォレ、チェコスロバキアでプラハの春を取材していた作家・文芸評論家のクロード・ロワ、人類学・社会学研究に基づく文化論を著したジャン・デュヴィニョー(フランス語版)ら約60人の作家が参加した。 さらに3日後の5月21日にはバルザック、ユーゴー、アレクサンドル・デュマ、ジョルジュ・サンドによって1838年に創設された権威ある文学者協会(フランス語版)の拠点「マッサ邸(Hôtel de Massa)」(パリ14区)を占拠し、「文壇の既存秩序に異議を唱える」ために、サロート、同じくヌーヴォー・ロマンの作家ミシェル・ビュトール、作家・芸術評論家のアラン・ジュフロワ(フランス語版)とともに作家同盟(Union des Écrivains)を結成した。作家同盟の主な参加者は『シャンジュ』誌と共産党系の『アクシオン・ポエティック(フランス語版)(詩的行動)』誌の寄稿者であり、社会改革における作家の役割を問う政治的色彩の濃い組織であったため、学生・作家行動委員会はこれに真っ向から反対した。だが、作家同盟は同年のプラハの春における政府による文学活動の統制を批判したミラン・クンデラらチェコスロバキア作家同盟を支援し、約200人の参加を得て、以後、工場労働者や労働運動の支援、社会保障に関する法律(1977年)に基づく作家の社会的地位の向上に関する提案、国際討論会を主催するなど積極的な活動を展開し、作家協会連絡委員会、次いで1979年に作家常任委員会(Conseil permanent des écrivains)が結成されることになった。この委員会には現在、文学者、芸術家による17の協会や労働組合が参加している。 ファイユの『シャンジュ』誌は1983年、ソレルスの『テル・ケル』誌は1982年にそれぞれ終刊となった。この間、両者はいずれも文学・文学理論、哲学、政治の前衛雑誌として激しく対立していた。いずれも創刊時にはスイユ社から刊行されたが、『シャンジュ』誌は1971年からセゲルス社から刊行された後に終刊。『テル・ケル』誌の編集部は同誌終刊後に後続誌『ランフィニ(フランス語版)』誌を創刊し、ドノエル出版社(フランス語版)から刊行。現在もガリマール出版社から刊行しているが、こうした傾向は、「前衛時代の終焉」を告げるものとされた。「前衛」についてソレルスは、その「誤り」はロシア革命に起源を発する「巨大な幻想と欺瞞性」によるものであったとし、真の前衛とは(運動や共同制作ではなく)その特殊性・単独性にあるという。 一方、『シャンジュ』誌の最終号は世界の芸術家の連携活動「ポリフォニックス」の特集号であり、ファイユは、権力から離れた芸術家の周辺性、ノマド性とそれによって可能になる自由な交流を重視するこの運動を支援し続けている。 ジャン=ピエール・ファイユは、1983年に芸術文化勲章コマンドゥール章、1993年にレジオンドヌール勲章シュヴァリエ章を受章した。
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