五朝八姓十一君
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 17:36 UTC 版)
五代十国時代には皇帝・王朝が激しく入れ替わったが、その中で馮道は後梁を除いた五代王朝の全て(後唐・後晋・後漢・後周)と、後晋を滅ぼして一時的に中原を支配した契丹族王朝の遼に仕え、常に高位にあった。馮道は仕えた主君を「五朝八姓十一君」と称している。 五朝 後唐・後晋・遼(燕雲十六州の割譲、および後晋滅亡時は契丹。劉知遠との抗争が起こる947年から遼)・後漢・後周の5つの王朝。 八姓 後唐の李存勗(李氏・朱邪氏)、その養子の李嗣源(本姓不詳)、そのまた養子の李従珂(本姓王氏)の3つの李氏、後晋の石氏、遼の耶律氏、後漢の劉氏、後周の郭威とその養子である柴栄の郭氏・柴氏の合計8つの姓。 十一君 後唐4代、後晋2代、遼(契丹)1代、後漢2代、後周2代の合計11人の皇帝。 宰相としての在任期間は20年に及ぶ。節度使出身である五代の武人皇帝や北方の遼の皇帝たちには、農民に対する哀れみの心が少なかったため、時に暴走する皇帝を諫め続け、時の民衆に敬仰された。一例を挙げれば、遼の耶律堯骨が開封に入った時に漢族を虐殺し、略奪を行いそうになったので、これを馮道は「今、仏陀がここに現れても民衆を救うことは出来ず、ただ皇帝である貴方だけが民衆を救うことが出来るのです(此時仏出救不得、唯皇帝救得)」と持ち上げて止めた。
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