五木「艶歌」観の浸透
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1966年発表の「柳ヶ瀬ブルース」(美川憲一)は、その後レコード吹き込みをしたところ、有線放送を通じてローカルなヒットになった。このヒットは、地元の有線放送のヒットが全国区の大手レコード会社から発売される、というボトムアップ方式のヒットであり、レコード会社主導の上からのヒット曲という従前のモデルとは異なるものであった。また、有線放送は盛り場でかかることが多いため、有線放送は艶歌の重要な市場となった。美川のヒット以降、「ブルース」と名付けられたご当地ソングが続けて出される。同年にデビューした青江三奈と森進一はともに地方の洋風盛り場のイメージに合致しており、ともにブルースを相次いで発表した。これらのブルースの流行は、高度経済成長に伴う地方都市の小都会化に起因しているとされる。 1969年にデビューした藤圭子は、その壮絶な生い立ちがまさに、五木が小説で示した「怨歌」に当てはまる存在であった。プロデューサーの石坂まさをは藤の物語やアングラな雰囲気を全力で押しだすプロモーションを行い、「演歌の星を背負った宿命の少女」のキャッチコピーで売り出した。五木本人は藤の最初のLPについて、「正真正銘の〈怨歌〉である」と絶賛した。藤の音楽性についての評論は、新左翼系論壇においても行われた。その意味で藤は五木的な意味での典型的な「演歌」歌手であったが、その曲調はブルース歌謡がメインで、また、当時社会的なメッセージ性を持ったフォークの要素をも取り入れていた。 1970年版の現代用語の基礎知識では、「演歌(艶歌)」の項目が立てられ、藤のブレークと前後して「演歌」は世間一般での知名度を得た。 藤がブームになったのち、1972年頃まで若者にも演歌が興味を持って受け入れられ、若者向けの雑誌でも演歌歌手に関する記事が多く見受けられる。GSや青春歌謡の系列の歌手も演歌調に寄せた曲を発表していた。
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