五月革命と金戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 22:52 UTC 版)
「シャルル・ド・ゴール」の記事における「五月革命と金戦争」の解説
金戦争(Gold war)は新聞が実際に用いた表現である。 世界的な学生運動の高まりと共に1968年5月に五月革命が発生した。フランス全土をストライキの嵐が襲い、ド・ゴールの政治生命は危機に陥った。そこで5月24日に国民投票を提案した。29日にバーデン=バーデンに赴いて軍と連携し、翌日ジョルジュ・ポンピドゥー首相の説得で国民投票を翻意して議会解散を表明した。それに呼応したド・ゴール支持の大規模なデモが行われ、またオリヴィエ・ジェルマントマがソルボンヌ大学大講堂でド・ゴール支持の演説を行った。五月革命は急速に力を失い、ド・ゴールは議会選挙でも圧勝して危機を乗り越えた。しかしノール県のBSNはサンゴバンの買収に失敗した。翌1969年に彼が国民投票に付した上院および地方行政制度の改革案が否決された。同年3月に金価格が高騰して24時間のゼネストが巻き起こり、4月にド・ゴールは辞任した。 ド・ゴール主義と金価格の関係は、1948年にブレトン・ウッズ協定に対立する形でCFAフランの対ドル相場がフランスフランと乖離し、ド・ゴールを支える金融資本家の経済利権となったことに始まる。1952年と1958年のピネー国債は金価格に応じてスライドするものであった。ド・ゴールは証券収入について累進課税を適用しなかった。むしろ国債応募者の所得に応じて国債利率を引き上げたうえ、相続税と贈与税を減免した。1957年にセーヌ県で行われた調査によれば、1953年までに亡くなったわずか33人の相続人が、被相続人の購入した1952年国債について10億フランの相続税を免れた。この額はナポレオン戦争の後に亡命貴族へ支払われた補償金総額に等しいが、デノミされて1000万新フランとなった。リュエフと19世紀以来の大資本が1960年前後にわたりアフリカで新たな利権を手にすると、1963年にド・ゴールが国際通貨制度を金本位制に戻そうと言い出した。そして1965年1月にフランス銀行が公然と財務省へ1億5,000万ドルをつきつけ正金へ交換した。翌月4日の記者会見にド・ゴールが登場し、「アメリカは基軸通貨という地位を利用してフランス経済を支配しようとしている」などと、疎い者を騙すような説明をした。アメリカ合衆国資本はリュエフ・プランが誘致したものであった。1967年10月にポーランド訪問とシュナイダー・コネクションが実を結び、ローマ教皇とギリシア正教総主教の会見が実現した。11月にはポンド危機に際してド・ゴールが金価格を2倍に引き上げるよう提唱した。翌1968年3月の7か国中央銀行総裁によるストックホルム会議で金の二重価格制が採用された。ユーロダラーのインフレーションはド・ゴール主義の集大成であった。
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