丸山古窯跡とは? わかりやすく解説

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弥勒寺官衙遺跡群
弥勒寺官衙遺跡
弥勒寺跡
丸山古窯跡

名称: 弥勒寺官衙遺跡群
弥勒寺官衙遺跡
弥勒寺跡
丸山古窯跡
ふりがな みろくじかんがいせきぐん
 みろくじかんがいせき
 みろくじあと
 まるやまこようあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 岐阜県
市区町村 関市池尻美濃市大谷田
管理団体 関市(昭37・623)
指定年月日 1959.03.02(昭和34.03.02)
指定基準 史2,史3,史6
特別指定年月日
追加指定年月日 平成19.02.06
解説文: 寺跡大字池尻地域にあり、山懷台地占めて南面し存するもので塔跡と金堂跡とが東西並び存する昭和28年及び同31年石田茂作博士等によって調査されたもので、塔跡基壇は約11メートル方形土壇で、中央心礎有し他に4個の側柱礎石が残存する塔跡西方金堂跡がある。基壇東西15メートル南北11メートル土壇をなし、残存礎石によって5間に4間の建物存したことがうかがわれる。他に、講堂経蔵鐘楼廻廊中門南大門位置もほぼ推定される。この寺跡堂塔配置および出土古瓦の上から見て白鳳時代建立みなされるものであり、当代寺跡として学術上の価値が高い。
 なお、寺跡東北方3キロ余餘、丸山称せられる独立丘陵窯跡存する昭和32年名古屋大学澄田正一楢崎彰一諸氏によって4基が調査された。いずれも登窯形式でその中の1基は長さ約9.3メートル有し焚口部・煙出し部もよく残り一部天井部も遺存している。いずれも瓦・須惠器等が出土しているが、殊に瓦は彌勒寺跡出土のものと軌を一にしており、同寺に供給したものとみなされる
 弥勒寺遺跡群は、長良川濃尾平野さしかかる手前形成され小瀬峡谷河岸段丘にあり、古代美濃国武儀郡位置する7世紀後半から9世紀にかけての寺院官衙などからなる遺跡群である。弥勒寺跡は、7世紀後半造営され金堂・塔・講堂回廊中門などの中心伽藍や、経蔵鐘楼南大門遺構確認され壬申の乱活躍した毛氏氏寺想定されている。また、その北東に約3キロメートル離れた丸山古窯跡は、弥勒寺跡に瓦を供給した瓦窯跡であり、昭和34年弥勒寺跡 附丸山古窯跡として史跡指定された。平成6年には指定地隣接する位置南門、塀など寺院関連する施設新たに確認されたため追加指定行った
平成6年に、弥勒寺跡東側隣接地範囲・内確認のための発掘調査行ったところ、古代礎石建物倉庫群確認したことから、周辺一帯発掘調査行ったその結果北から西へ屈曲して流れ長良川面した7世紀後半から10世紀前半官衙跡が確認された。ここでは東西50メートル南北60メートル掘立柱塀で囲まれ範囲正殿両脇殿を「品」字形配した政庁院、東西130メートル南北40メートル範囲を溝で区画し内部総柱建物が並ぶ正倉院のほか、館や厨と考えられる掘立柱建物群や塀跡が確認された。これらは8世紀から10世紀前半武儀郡衙(郡家)跡と推定される。さらに下層では、7世紀後半評衙やそれに伴う館跡として機能した推定される大型掘立柱建物群が確認された。
このほか、弥勒寺跡の西に隣接する弥勒寺西遺跡では、護岸施設を伴う古代河川跡導水施設から、8世紀後半から9世紀にかけての斎串木製人形等の祭祀遺物や、多量墨書土器鉄滓や鞴の羽口が見つかっており、郡衙に伴う祭祀遺構鉄器生産工房跡推定される弥勒寺西遺跡のさらに西側には、大型横穴式石室主体部とする池尻大塚古墳存在している。
このように、この一帯規模配置等が明瞭な形で確認され官衙遺跡中心に付属する祭祀遺構寺院等の関連遺跡群が集中する状況面的把握することができ、古代国家地方支配体制具体的に示すものとして重要である。そこで今回7世紀後半から10世紀前半に至る弥勒寺官衙遺跡追加指定するとともに、名称変更行い保護万全図ろうとするものである
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丸山古窯跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/22 14:14 UTC 版)

丸山古窯跡
丸山古窯跡
所在地 日本 岐阜県美濃市
座標 北緯35度31分39秒 東経136度52分03秒 / 北緯35.52750度 東経136.86750度 / 35.52750; 136.86750
歴史
時代 白鳳時代
追加情報
一般公開 あり

丸山古窯跡(まるやまこようせき)は岐阜県美濃市大矢田の丸山東西斜面にある白鳳時代のの窯跡。ここで生産された瓦は弥勒寺で用いられたことが知られている。弥勒寺官衙遺跡群の一部として国の史跡に指定されている[1]。なお、同名の古窯跡が静岡県島田市にも存在する[2]

概要

大矢田の南西にある丸山の西側に1号窯、東側に南から2号窯、3号窯、4号窯の合計4つの窯が築かれている。昭和32年(1957年)7月に名古屋大学考古学教室手により1号窯と2号窯が発掘された。いずれも山の斜面に沿って作られた穴窯であった。 出土物には須恵器の鳥鈕蓋、杯、壺、甕ほか瓦がある[3]。須恵器は周辺の後期古墳の副葬物と同じで、瓦は弥勒寺に用いられているものと同じであることから、弥勒寺が建設されたころに使用されていたことが判明している[4]

丸山は周囲の田から粘土を取った際の穴埋めのために削り取られており、1号窯はその影響で入口と灰原が破壊されていたものの、残された部分は奥行き7.4m、幅が最大2m、高さ60cm以上あり、床面は斜度32°であったことが分かっている[5]

2号窯は破壊を免れており、奥行き9.3m、幅が最大1.7m、高さは焚口で1.25m、煙道で55cmとなっており、床面の傾斜が33°と1号窯とほぼ同じ構成であるとみられる。ただし、上端主軸に対して直角の穴を備えている。灰原は一部損なわれていたが、厚さ70cmで焚口から21mまで広げられていた[6]

丸山古窯跡の矢田川対岸には平安時代末期のものととみられる桜洞古窯跡や大洞古窯跡が見つかっている[7]

岐阜県内で発見された窯跡の中で最も古いとされ、また、古墳時代末期のという年代が判明している窯跡であることから遺跡として重要視され、1959年(昭和34年)3月2日付けで国の史跡に指定された。

脚注

  1. ^ 船橋正 1998年『岐阜県の文化財』p.309
  2. ^ 島田市教育委員会 『丸山古窯跡発掘調査報告書 静岡県島田市埋蔵文化財報告』 1992年
  3. ^ 美濃市 1952年『美濃市史 通史編 上巻』p.154
  4. ^ 美濃市 1952年『美濃市史 通史編 上巻』p.155
  5. ^ 美濃市 1952年『美濃市史 通史編 上巻』p.152
  6. ^ 美濃市 1952年『美濃市史 通史編 上巻』p.153
  7. ^ 美濃市 1952年『美濃市史 通史編 上巻』p.156

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