中山グランプリ創設 - 「有馬記念」へ
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「有馬記念」の記事における「中山グランプリ創設 - 「有馬記念」へ」の解説
中山改築前年の1955年(昭和30年)末、頼寧は競馬会のパーティーにおいて「ファンが決めるレースを中山でやってみたい」という腹案を明かした。頼寧は戦前にプロ野球・東京セネタースのオーナーを務めていたことがあり、野球のオールスターゲームから着想を得て「ファン投票による出走馬選定」という企画に至った。従来の中山では中山大障害と皐月賞が二大競走だったが、同じ関東の主要場であり、東京優駿(日本ダービー)、天皇賞(秋)、優駿牝馬(オークス)という大競走を抱える東京競馬場に比して格が落ちるという意識が中山の関係者間にもあり、この案は好意的に迎えられた。さらにこの競走には、4歳クラシック競走を走り終えた4歳馬と、古馬(5歳以上馬)の最大目標である天皇賞(秋)を終えた馬がぶつかる日本一決定戦という大きな要素も加えられることとなった。 第1回の競走名は「中山グランプリ」とされた。フランスには「パリ大賞(Grand Prix de Paris)」という名の大競走があったものの、日本において「グランプリ」という語は、黒澤明監督の映画『羅生門』が1951年(昭和26年)にヴェネツィア国際映画祭の最高賞(グランプリ)を受賞してから巷間に広まり、ために当時は映画絡みの言葉という感が強く、競馬の競走名として適当でないとの見方もあった。このため、「中山グランプリ」はあくまでも仮の名称として、第1回競走の投票用紙には競走名の案を書く欄も設けられた。競走名案には3812通が寄せられ、中山グランプリのほかに中山(大)賞典(記念)、(中山)王冠(賞)、(中山)栄冠(賞)、(中山)クラウン(賞)といったものがあった。しかし妙案がないということで競走名は「中山グランプリ」のまま据え置かれ、1956年(昭和31年)12月23日、新スタンドを備えた中山競馬場において第1回競走が行われた。出走12頭のうち、天皇賞の優勝馬が3頭、クラシック競走の優勝馬が4頭と当時の強豪が一堂に会し、中山では1万人入れば大入りといわれた時代にあって、当日の入場者は2万7801人という盛況であった。 ところが、第1回中山グランプリからわずか17日後の1957年(昭和32年)1月9日、頼寧が肺炎により急逝した。理事長として1年9カ月という短い在任期間中に様々な功績を残した頼寧の名を称え、同年11月23日に中山グランプリは「有馬記念(グランプリ)」と改称された。その後、有馬記念は日本競馬の根幹競走のひとつとして定着。また、勝馬投票券の売上は日本一を誇る競走となり、1996年(平成8年)度には世界の競馬史上最高額となる875億円を売り上げ、ギネス世界記録に認定登録された。有馬記念は競馬界のみならず日本の年末の風物詩として、社会的な認知を得るに至っている。 現在では距離別の競走体系が整備され、同じ12月に香港国際競走が行われることもあり外国調教馬の遠征やスプリント・マイル戦線での活躍馬の出走は少なくなったものの、2019年の第64回には合計11頭のGI級競走優勝馬が出走するなど、日本国内での3歳馬・古馬混合中長距離競走としてはトップクラスの競走としてその地位を確立している。 ただ、年々香港国際競走(特に同距離に近い香港カップ・香港ヴァーズ)への出走馬の流出が相次いでいること、日本国外においても、サウジカップ(1000万USドル)、ドバイワールドカップ(696万USドル)、凱旋門賞(285万7000ユーロ)などに代表される世界最高賞金額のレースが増えてきており、「海外の主要競走に対する競争力を高める」目的で、2022年の第67回から、優勝本賞金を4億円に増額される(ジャパンカップと同額)。
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