世界各地への訪問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 01:00 UTC 版)
「アルベルト・アインシュタイン」の記事における「世界各地への訪問」の解説
1921年、カイム・ワイズマンの提案により、イギリス委任統治領パレスチナのエルサレムに創立予定のヘブライ大学建設資金を調達するためにアメリカを訪問し、その帰りにイギリスも訪問した(ここではニュートンの墓を訪ねた)。 1922年3月にフランスを訪れたほか、10月には日本への訪問を目的に夫婦で客船「北野丸」に乗船。11月17日に訪日したアインシュタインは、その後43日間滞在し、大正天皇に謁見している(#アインシュタインと日本参照)。また、日本へ向かう最中、11月9日にアインシュタインは前年度に保留されていた1921年度のノーベル物理学賞受賞の知らせを受けている。受賞理由は「光電効果の発見」によるものであった。当時、アインシュタインが構築した相対性理論について「人類に大きな利益をもたらすような研究と言えるのかと言えば疑問」との声があり、さらには「ユダヤ的」であるとするフィリップ・レーナルトあるいは、ヨハネス・シュタルクなどノーベル物理学賞受賞者らの批判があった。ノーベル委員会は、これらの批判を避けるために、光電効果を受賞理由に挙げたと言われている。なお、受賞に際して賞金も授与されたが、これはアインシュタインが近々自身のノーベル賞授与を予測しており、賞金を渡す前提条件に離婚していたため、かつての妻ミレヴァに渡したとされる。 1923年、日本を出国した後、エルサレム、スペインを訪問しドイツへと戻る。7月11日にスウェーデンのヨーテボリでノーベル賞受賞の講演を行っている。 1925年、インドの物理学者サティエンドラ・ボースからの手紙をきっかけとして、ボース=アインシュタイン凝縮の存在を予言する論文を発表。また、この時期に行っていた誘導放出の研究が、のちのレーザーの開発につながることになった。 1929年、ベルギー王家を訪問。ベルギー王妃エリザベートと親交を交わす。 1930年、ベルリン郊外、カプート(ドイツ語版)という町に別荘を建てる。同年11月、レオ・シラードと共同でガス吸収式の家庭用冷蔵庫の特許を申請する。 1932年、アメリカへ3度目の訪問をすべくドイツを発つ。しかし、翌年にはドイツでヒトラー率いるナチスが政権を獲得。以後ユダヤ人への迫害が日増しに激しくなっていったため、アインシュタインがドイツに戻ることはなかった。 1933年、ベルギー王妃の厚意により、ベルギーの港町デ・ハーン(フランス語版、英語版)に一時身を置く。しかしこの町はドイツとの国境に近かったため、ドイツの手が及ぶのを恐れたアインシュタインはイギリス、スイスへの旅行の後、再度イギリスへと渡る。その後アメリカへと渡り、プリンストン高等学術研究所の教授に就任。また、プロイセン科学アカデミーを辞任。なお、この年にはアインシュタインの別荘をドイツ警察が強制的に家宅捜索するなどという出来事もあった。その後ドイツはアインシュタインを国家反逆者とした。
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