ボース【Satyendra Nath Bose】
サティエンドラ・ボース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/22 05:40 UTC 版)
Satyendra Nath Bose サティエンドラ・ボース |
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サティエンドラ・ボース(1925)
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生誕 | Satyendra Nath Bose 1894年1月1日 ![]() |
死没 | 1974年2月4日 (80歳没)![]() |
研究分野 | 理論物理学 |
研究機関 | コルカタ大学 ダッカ大学 タゴール国際大学 |
出身校 | コルカタ大学 |
指導教員 | ジャガディッシュ・チャンドラ・ボース プラフラ・チャンドラ・レイ |
主な指導学生 | アシマ・チャタジー |
主な受賞歴 | ボース=アインシュタイン凝縮 ボース分布関数 ボース気体 ボース粒子 熱力学の状態方程式 |
署名 | |
プロジェクト:人物伝 |
サティエンドラ・ナート・ボース(英語: Satyendra Nath Bose、ベンガル語: সত্যেন্দ্রনাথ বসু [ʃotːendronatʰ boʃu] ショッテンドロナト・ボシュ、ヒンディー語: सत्येन्द्र नाथ बसु [səˈtjeːndrə ˈnaːtʰ ˈboːs] サティエーンドラ・ナート・ボース、1894年1月1日 - 1974年2月4日)は、インドの物理学者。ボース=アインシュタイン統計を光子の統計として導入。ボース粒子(ボソン、ボーズ粒子/ボゾンとも)として名を残す。
人物
ボースは1894年に英領インドのカルカッタに生れた。1909年からカルカッタのプレジデンシー大学に入学した。1916年から教職に就き、ダッカ大学(1921年 - 1945年)を経てカルカッタ大学(1945年 - 1956年)の教授となった。
ボースはダッカ大学時代の1924年、アインシュタインのもとに「プランクの放射法則と光量子仮説」と題する論文を送った。それを読んだアインシュタインは非常に高く評価し、ドイツ語に翻訳して物理学雑誌に掲載させた。ここからボースによる光子の統計法の理論が広まり、アインシュタイン自身によって発展させられた。1958年王立協会フェロー選出。
関連項目
サティエンドラ・ボース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 17:49 UTC 版)
「ノーベル賞を巡る論争」の記事における「サティエンドラ・ボース」の解説
ボース粒子、ボース=アインシュタイン統計、ボース=アインシュタイン凝縮に関する研究で、いくつかのノーベル賞が授与されている。例えば、2001年の物理学賞はボース=アインシュタイン凝縮の理論を進化させた研究に対して授与されている。しかし、サティエンドラ・ボース自身はノーベル賞を授与されていない。物理学者のジャヤント・ナーリカーは、著書『The Scientific Edge』において次のように述べている。「S・N・ボースの粒子統計の研究(1922年ごろ)は、光子の挙動を明らかにし、量子論の規則に従う微小系の統計上の新しいアイデアへの門戸を開いたもので、20世紀のインド科学の成果のトップ10の一つであり、ノーベル賞クラスであると考えられる。」ナーリカーがノーベル賞クラスとして挙げた他の20世紀のインドの科学者は、シュリニヴァーサ・ラマヌジャン、チャンドラセカール・ラマン、メーグナード・サーハーである。しかし、ボース自身は、ノーベル賞が受賞できなかったことについて尋ねられたとき、次のように述べている。「私は私の価値についての全ての認識を持っている。」CERNのロルフ=ディーター・ホイヤー(英語版)総局長は、コルカタでのFrontiers of Scienceと題された学術会議において、「先駆的なインドの物理学者サティエンドラ・ナート・ボースが、ボース=アインシュタイン統計とボース=アインシュタイン凝縮の理論の基礎を提供した1920年代の量子物理学に関する研究に対してノーベル賞を受賞しなかったのは残念だ」とコメントしている。
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