歴史に関する補遺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 04:20 UTC 版)
一部の物理学の教科書を含む、量子理論の説明の多くは、プランクの法則の説明において重大な間違いを犯している。この間違いは1960年代よりも前に物理学史の研究者によって指摘されたものの、現状が示しているようにこの間違いを根絶するのは難しい。Helge Kraghの論文により、実際には何が起きたのかについてのはっきりした説明が与えられた。 広く知られている通説に反し、プランクは光を量子化しなかった。この根拠としては、プランクの1901年のオリジナルの論文と、その中に参考文献としてあげられている彼の1901年以前の論文があげられる。また、著書 "Theory of Heat Radiation" においてプランク定数はヘルツ振動子 (Hertzian oscillator) を示していると説明している。量子化の概念は別の第三者によって、現在では量子力学として知られるものの中に開発された。この流れの中で次に重要な段階を踏んだのはアルベルト・アインシュタインであった。アインシュタインは光電効果を研究し、光は塊や光子として放出されるだけでなく、吸収もされるという模型と方程式を提出した。そして1924年、サティエンドラ・ボースがプランクの法則を理論的に導出することができる光子の統計力学を考え出した。 また別の通説に反し、プランクは紫外発散の問題を解決しようとしてこの法則を導いたわけではなかった。紫外発散とはポール・エーレンフェストによって与えられた用語であり、黒体放射に古典統計力学のエネルギー等配分の法則を適用すると、空洞の全エネルギーが無限大になってしまうという矛盾である。プランクは等配分則が普遍的に成り立っているとは考えておらず、よって「発散」の問題にも気づいていなかった。紫外発散は5年ほど後の1905年にアインシュタイン、レイリー卿、ジェームズ・ジーンズによって独立に発見された。
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