上院での経歴
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1948年の選挙の後、ロングは再選で接戦になる事は二度となかった。1962年、彼は民主党予備選挙で407,162票(80.2%)対100,843票(19.8%)の差で弁護士のフィルモン・A・"フィル"・セントアマントを破った。次に彼はシュリーヴポートの弁護士で会計士の共和党の対立候補テイラー・オハーンを、318,838票(75.6%)対103,066票(24.4%)で破った。セントアマントもオハーンも、右翼的な見地からロングに挑戦した。 ロングは、国の公立学校での人種分離撤廃を命じたブラウン対教育委員会裁判の判決を非難する、「サザン・マニフェスト」に署名した。その当時のディープ・サウス選出の上院議員の大部分と同様に、ロングは1964年公民権法を含む公民権の立法に対して反対票を投じ続けた。 1964年、ロングはルイジアナ州で公認候補のジョンソンとハンフリーを強く支持するテレビ演説を行う事で社会通念に逆らい、共和党のバリー・ゴールドウォーターとウィリアム・ミラーの選挙人に州で敗北した。しかしこの行為はロングの将来に何の衝撃も与えず、1968年、1974年、1980年と共和党は挑戦を辞退した。 民主党の上院議員連は1965年に彼を院内総務に任命したが、彼は激しく飲酒をするようになり上院の議事場で酔っぱらっているのをしばしば見られるようになった。ロングはこの時代に見られた多くの公共当局での飲酒問題の一例であった。彼は1969年にこのリーダーシップの地位を失いマサチューセッツ州選出のエドワード・ケネディに引き継がれた。後に彼は飲酒を止め、同僚たちの間の評判は元に戻った。彼は、最初にアレン・エレンダー、次に同じシュリーヴポート生まれのベネット・ジョンストン・ジュニアといった、彼のルイジアナ州の上院議員の同僚たち特に良い関係を持った。 1968年、ロングに対する共和党候補者と目されていた、イーストフェリシアナ郡の地区検事のリチャード・キルボーンが出馬を取り下げたため、同年ロングは対抗馬なしに出馬した。 1974年、ロングは民主党予備選挙において、ジェファーソン郡ウェストウェゴ出身の州保険長官シャーマン・A・バーナードを520,606票(74.7%)対131,540票(18.9%)で破った。バトンルージュ出身の州共和党議長ジェームズ・H・ボイスは議会季刊誌週報に、ルイジアナ州共和党は「圧倒的に少数派で地方選挙に出馬する十分な候補者を見つけられない」という、21世紀の初めまで党を苦しめた問題を語った。 ボイスは共和党がロングに挑戦する適任の候補者を見つけるのは難しいとした。彼は「いけにえの小羊」的な候補者を見つけたり、出馬の動きを体験させる事を止めさせ、「候補者の感情は傷ついている。我々は良い候補者を見つけて、彼に出資しなければならない」と言った。1974年秋、ボイスは、「ルイジアナ州共和党はウォーターゲート事件によって傷ついていない、なぜなら彼らには「失うものはほとんどない」からだ」と言った。しかしウォーターゲートは、南部の共和党のチャンスの喪失を引き起こした。 1980年、ロングはバトンルージュ出身の州下院議員、ルイス・ジェンキンスを、484,770票(57.6%)対325,922票(38.8%)で破った。ジェンキンスは同年の候補者が乱立する予備選では民主党員であったが、彼は後に共和党となり1996年にもう一度上院に出馬し、わずか4,000票ほどの差で負けた。1980年の選挙運動では、ロングの友人で同僚の、1976年に共和党副大統領指名候補になり1996年には大統領指名候補となるカンザス州共和党のボブ・ドールがジェンキンスの対抗に出馬したロングのテレビCMを削除し、ジェンキンスは1978年にもジョンストンに挑戦し負けていた。ドールとロングは同年それぞれ再選に出馬した。1980年の予備選は、ロングの名前がリストに上った最後の年であった。 1986年、クロウリー出身の民主党議員ジョン・ブローが、ロングの上院議席の後任に選出された。ブローは1975年から合衆国下院議員を務めていたバトンルージュ出身の共和党ヘンソン・ムーアと議席を争うこととなった。ブローは予備選挙ではムーアに肉薄されたものの、その後の総選挙で勝利を収めた。ブローは上院で3期を務め、ロングに匹敵する人気を得て政界を離れた。しかしブローは、ロングと異なり、後継者を確定しなかった。2004年にはニューオーリンズ郊外出身のデーヴィッド・ヴィッター議員の勝利により、この上院議席は共和党のものとなった。 ロングはルイジアナ州知事への出馬を推測されていたが、これを否定し、1987年に上院を引退した。 シュリーヴポート・ジャーナルの元編集者のスタンリー・タイナーは、「ロングは1986年の上院選には出馬しない、なぜならロングは共和党候補のヘンソン・ムーアに勝てないと考えているからだ」と語った。しかしロングは、「身体の具合が良いうちに上院を去りたい」と語った。その後もロングは人気ロビイストとしてワシントンD.C.に残った。
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上院での経歴
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1974年以来、バーモント州より連邦上院議員に8期続けて選出されている。
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