アメリカ合衆国上院での経歴
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「ウィリアム・O・ブラッドリー」の記事における「アメリカ合衆国上院での経歴」の解説
1907年、共和党はウィルソンを知事候補に指名し、当選させた。この勝利で再び共和党は州議会で強気になり、1908年にはブラッドリーをアメリカ合衆国上院議員候補に指名した。民主党は現職知事のベッカムを指名することで対抗した。議会では民主党が多数だったが、ベッカムは禁酒法に賛成していたことを理由に、民主党の7人がベッカムを支持しなかった。彼等は別の候補者に投票したので、誰も過半数を得られなかった。当選者が決まらないままに投票が2か月間以上続き、民主党の中にはより現実性のある候補者のためにベッカムが撤退することを勧める者が現れた。ベッカムがこれを拒み、21回投票が進んだ後で、ブラッドリーの飲酒を認める姿勢を好んだ民主党員4人が党への忠誠を拒否し、ブラッドリーに投票したので結果は64票対60票でブラッドリーが勝利した。これら4人は次の選挙で再選されなかったが、1人はブラッドリーの私設秘書になった。 アメリカ合衆国議会第61期と第62期で、ブラッドリーは司法省における上院歳出委員会の委員長を務めた。第61期ではインディアン土地に関する侵入者調査委員会委員長、第63期では革命的主張委員会委員長も務めた。歴史家のジェイムズ・C・クロッターは、ブラッドリーが上院議員を務める間に「議案を作る能力よりも雄弁さで知られた」と述べている。黒人が住んでいる州で役人に指名しないというタフト政権の政策をブラッドリーが支持したことで、黒人を失望させた。 1908年アメリカ合衆国大統領選挙で、ブラッドリーは共和党候補者としてチャールズ・W・フェアバンクスを支持し、一方ウィルソンはウィリアム・ハワード・タフトを支持した。この不一致が州の指名大会を損ない、新任上院議員だったブラッドリーは共和党全国大会の代議員に選ばれなかった。このことでブラッドリーは不満を抱き、ウィルソンとの同盟を止めた。1911年共和党指名大会では、共和党の知事候補になったエドワード・C・オリアをブラッドリーは支持しなかった。知事選挙でもオリアを応援するためにほとんど何もせず、元州知事で民主党のジェイムズ・マクリアリーが当選した。 1914年5月14日、ブラッドリーは健康上の衰えを理由に、その任期が明けたときに、政界から引退することを発表した。その発表後電車に乗ろうと急いでいるときに、ひどく転倒して、指を2本折り、頭を打ち、身体内部に損傷を受けた。短期間仕事に戻ろうとした後に寝たきりとなり、1914年5月23日に死んだ。公式の死因は尿毒症とされた。ブラッドリーが死んだことに対し、アメリカ合衆国議会両院はその弔意を表明し、敬意から一次休会にする決議案を通した。遺骸は埋葬のためにフランクフォートに戻されたが、ブラッドリーとその遺族の遺志に基づき一般公開は行われなかった。フランクフォートの州立墓地に埋葬された。
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