ワイン生産の先駆者たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 20:58 UTC 版)
「オーストラリアワイン」の記事における「ワイン生産の先駆者たち」の解説
Clip オーストラリアに初めてブドウを植えたフィリップ初代総督 1788年のファースト・フリート (1788年にオーストラリアに着いた最初の囚人船団、「最初の植民船団」)とともに、ブドウの樹もオーストラリアに持ち込まれた。アーサー・フィリップ初代総督は、ブラジルのリオデジャネイロや南アフリカのケープタウンでブドウの挿し木を積み込み、ニューサウスウェールズ地方の流刑地(現在のシドニー王立植物園(英語版)近く)に植えた。降水量の多いシドニーの気候はブドウ栽培とワイン生産に不向きであり、フィリップ総督は良好な土壌と乾燥気候の内陸部にブドウ畑を移動させた。1791年にはシドニーの西25kmのパラマッタ川(英語版)沿いに約1ヘクタールのブドウ畑を築き、フランス人戦争捕虜がブドウ栽培にあたった。フィリップ総督は1792年にイギリス本国に帰国しているが、1795年にはオーストラリアで初めてワインが生産されたとされている。1820年代までにはオーストラリアの植民地内向けのワインの販売が可能となった。1820年から1840年にかけて、ニューサウスウェールズ地方、西オーストラリア地方、ビクトリア地方、最後に南オーストラリア地方に、入植者たちが徐々にブドウ畑を設立していった。 Clip オーストラリア産ワインをはじめて輸出したブラックスランド グレゴリー・ブラックスランドはケープタウンから持ち込んだブドウの木をシドニー西方のパラマッタ・ヴァレーに植え、ボルドースタイルのワインを生産した。1822年には136リットルのワインを船に積んでロンドンに向かい、1823年にはこの酒精強化ワインが商工業奨励会(王立協会の前身団体)によって銀賞を授与された。ブラックスランドは海外で賞を勝ち得たオーストラリア初のワイン生産者である。カリフォルニアワインが初めて輸出されたのは1840年であり、オーストラリアはカリフォルニアに18年先んじている。5年後にはさらに多くのワインを積み込んでヨーロッパに赴き、今度は金賞を獲得した。これはオーストラリア産ワインが国際ワインコンクールで獲得した初の金賞である。 1792年にオーストラリアにやってきたジョン・マッカーサーは、国外追放を命じられた後にフランスでブドウの木を収集して栽培技術を習得し、1817年に再びオーストラリアに渡った。1820年にはシドニー南方のカムデンで、後にはシドニー西方のペンリスでワインを生産した。マッカーサーはオーストラリアで初めて商業ベースのワイン生産を行った人物であり、1827年には9万リットルのワインを生産した。ジョンの息子ウィリアム・マッカーサーは1844年に『ブドウの栽培、発酵及びワインの貯蔵に関する書簡』を出版している。 Clip 「オーストラリアワインの父」と呼ばれるバズビー 「オーストラリアワインの父」と呼ばれるジェームズ・バズビーは1824年にイギリスからオーストラリアに渡り、シドニー近郊のハンター・ヴァレーでワインを生産した。1828年にウィンダム・エステートが設立されたハンター・ヴァレーはオーストラリア最初の商業ワイン産地である。1825年には『ブドウ栽培法及びワインの製造技術』を、1830年には『NSW州におけるブドウの栽培とワインの製造に関するマニュアル』を出版。1831年からはフランスとスペインのブドウ畑を視察して発酵法を学び、各地のブドウの木の収集を行った。650品種をオーストラリア行きの船に積み込むと、1833年にオーストラリアに戻った時には362品種が長旅を耐えた。シドニー、カムデン、アデレードの各植物園や兄が経営するブドウ畑などにこれらの木が植えられた。バズビーの尽力の結果、ハンター・ヴァレーには1852年に186ヘクタールのブドウ畑があり、年間27万2000リットルのワインと4,500リットルのブランデーを生産。アデレード植物園(英語版)に植えられた木から得られた苗木が南オーストラリア地方の各地に伝わった。オーストラリアで古くから栽培されている品種の多くはバズビーのコレクションにルーツを求めることができる。
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