マヌエル1世時代
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「ジョルジェ・デ・レンカストレ (コインブラ公)」の記事における「マヌエル1世時代」の解説
マヌエル1世即位後のジョルジェの生涯に関する詳細については、王の競合者をできる限り悪印象に描こうとするマヌエル1世宮廷の御用学者たちの手で、事実を捻じ曲げられて伝えられた。御用学者たちはジョルジェを怠惰で性的に堕落した人間と描写したが、サンティアゴ騎士団の修史官は、総長であったジョルジェを非常に勤勉な指導者・行政官だったとの記録を残している。 ジョルジェはマヌエル1世即位後もポルトガルの国政における最重要人物の1人であり、特にマヌエルの治世初期には注目すべき存在であった。ジョルジェの権力の源泉はサンティアゴ騎士団にあり、彼はパルメラの騎士団本部に反マヌエル派の宮廷に類するものを形成した。かつてジョアン2世の与党であり、今はマヌエル1世反対派となった勢力がジョルジェの「宮廷」に参集した。ジョルジェの事実上の養家アブランテシュ伯家、アトウギア伯家(英語版)、そして実母の実家メンドーサ家などである。中でも、母方叔父でアヴィシュ騎士団騎士だったアントニオ・デ・メンドーサ・フルタードはジョルジェに最も近しい存在だった。その他、インド航路の航海者ヴァスコ・ダ・ガマやフランシスコ・デ・アルメイダなどもジョルジェの与党であった。また、ジョルジェはポルトガル国内の新キリスト教徒を保護し、彼らをポルトガルで始まった異端審問(英語版)から守ろうと奮闘したことから、新キリスト教徒からも支持されたという。 ジョルジェの党派はまた、初期のインド航路(英語版)開拓においても重要な役割を果たした。彼らは、インド航路の開拓を国庫を潤沢にするための商業上の方策と捉え、ルネサンス時代の富と権力の集中を志向する国家像を構想していたジョアン2世の財政構想を共有していた。マヌエル1世の宮廷は、海上探検をより中世的な聖戦や布教ミッションの側面で捕らえるキリスト教的価値観で捉えており、探検の最終目標としてエジプトやメッカへの侵攻、イェルサレム解放を構想していた。ジョルジェあるいはその党派の人々は、ポルトガルのインド航路開拓をより現世的で将来性のある路線に乗せるのに貢献し、インド探検者はマヌエルの宮廷よりもジョルジェの党派から多く出た。 マヌエルの治世初期、ジョルジェはまだ後継者のいない新王の後を継ぐ可能性がある希望的観測に基づき権力を保っていたが、王妃マリア・デ・アラゴンが次々に王子を産むとその可能性も消えていった。それとともにジョルジェの党派の人々も次第に彼の元を離れ、マヌエル王の宮廷と和解したり接近しようとしたりするようになった。ヴァスコ・ダ・ガマやフランシスコ・デ・アルメイダなど、ジョルジェの配下のサンティアゴ騎士団やアヴィシュ騎士団の団員たちは、次々にマヌエル王のキリスト騎士団に移っていった。 ジョルジェは1499年、インド到達を果たし歓呼の中で帰還したガマとの不運な争いに巻き込まれた。マヌエル王はガマへの褒賞として出身地シーネスを所領として与えると約束した。ところがシーネスはサンティアゴ騎士団の所領であった。この決定が自分自身で出したものなら、ジョルジェは喜んで町をガマに譲ったかもしれないが、王命によって譲ることを強制されたため、ジョルジェはこれが騎士団の所領が国王政府に食い物にされるきっかけになることを恐れた。そこでジョルジェは騎士団の資産管理に関する規則を作成し、この資産移譲を防ごうとし、1507年ガマをシーネスから追放した。ガマはこの仕打ちに怒り、ジョルジェのサンティアゴ騎士団を脱退してマヌエル王のキリスト騎士団に鞍替えした。 ジョルジェは、マヌエル王配下のキリスト騎士団から絶え間なく権利侵害や圧迫を受けるサンティアゴ騎士団・アヴィシュ騎士団を守るために奮闘した。1505年5月、ジョルジェは苦心して、配下の騎士団騎士がジョルジェの許可なく騎士団を脱退することを禁じる、とする勅令をマヌエル王に出してもらうことに成功した。しかしマヌエル王は教皇アレクサンデル6世に働きかけて2つの教皇勅書を出してもらい、先の勅令を骨抜きにしてしまった。1つ目は1505年7月、ポルトガルの3つ全ての騎士団の資産の最終的な処分権はポルトガル王にあるとするもの。2つ目は1506年1月、他の騎士団からキリスト騎士団への騎士の所属変更を自由とするもの、である。しかしジョルジェは王の圧迫に抵抗し、総長である自分の許可なく脱退した騎士を罰する場合もあった。例えば1508年、初代タロウカ伯爵(ポルトガル語版)がジョルジェの許可なくクラート修道院長の座に就いた際には、罰として伯爵の管理するセジンブラを占領している。 1509年、ジョルジェはサンティアゴ騎士団に新しい会則を導入し、兄弟関係にあるスペインのサンティアゴ騎士団に類似した中央集権的な管理体制に移行させた。しかし度重なる圧迫によって、ジョルジェの政治上の権力基盤は衰え、ジョルジェの運命はすぐに暗転した。1516年、教皇レオ10世が、サンティアゴ・アヴィシュ両騎士団の次期総長の任免権は現総長のジョルジェではなくマヌエル王にあると通告したとき、ジョルジェの屈辱は頂点に達した。
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