マヌエル1世の野望と挫折とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > マヌエル1世の野望と挫折の意味・解説 

マヌエル1世の野望と挫折

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:42 UTC 版)

コムネノス王朝」の記事における「マヌエル1世の野望と挫折」の解説

こうした繁栄受けて3代目皇帝マヌエル1世コムネノスは、古代ローマ帝国復興目指しイタリア遠征、キリキア・シリア地方への遠征神聖ローマ帝国との外交戦を繰り広げ盛んに建築活動行なった。しかしマヌエル1世積極的な外交政策享楽的な生活は財政支出増大生んで帝国財政悪化させた。また祖父アレクシオス1世の代から特権得ていたヴェネツィア増長ぶりを見たマヌエルは、1171年ヴェネツィア人一斉逮捕行ったために、関係が悪化し、のちの第4回十字軍生む結果となる。内政面でもコムネノス・ドゥーカス一門軍事貴族は代を経るにしたがって人数増加するとともに各地根付いて強大化し中央政府から一定の独立性保持してあたかも封建領主のようにふるまったこのため皇帝貴族たちを統御しきれず、なかには半独立状態になる者まで現れた。数次にわたる十字軍首都市民との軋轢次第深まり軍事協力見返りとしてヴェネツィアジェノヴァ貿易特権与えたことで国内商工業衰退し関税収入失われた。 さらに軍事面でも1176年小アジアミュリオケファロンの戦いルーム・セルジューク朝惨敗し帝国威信失墜した神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世東ローマ皇帝を「皇帝」として認めずギリシャ人の王」と呼ばれる屈辱を味わうことになる。こうして失地回復果たせないまま、東ローマ帝国国力使い尽くした状態でマヌエル没したアレクシオス1世ヨハネス2世によって取り戻されたかに見えた帝国繁栄は再び失われ衰退への道をたどることになったのであるマヌエル死後マヌエル未亡人マリア後見のもと、マヌエルアンナのあいだに生まれた息子アレクシオス2世即位したが、アレクシオス2世はまだ幼くクーデタ政権掌握したマヌエル従兄弟アンドロニコス1世コムネノス帝位奪われて、母親ともども殺害されてしまった。

※この「マヌエル1世の野望と挫折」の解説は、「コムネノス王朝」の解説の一部です。
「マヌエル1世の野望と挫折」を含む「コムネノス王朝」の記事については、「コムネノス王朝」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「マヌエル1世の野望と挫折」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マヌエル1世の野望と挫折」の関連用語

マヌエル1世の野望と挫折のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マヌエル1世の野望と挫折のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのコムネノス王朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS