マヌエル1世の野望と挫折
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「コムネノス王朝」の記事における「マヌエル1世の野望と挫折」の解説
こうした繁栄を受けて3代目の皇帝マヌエル1世コムネノスは、古代ローマ帝国の復興を目指してイタリア遠征、キリキア・シリア地方への遠征、神聖ローマ帝国との外交戦を繰り広げ、盛んに建築活動を行なった。しかしマヌエル1世の積極的な外交政策や享楽的な生活は財政支出の増大を生んで帝国の財政を悪化させた。また祖父アレクシオス1世の代から特権を得ていたヴェネツィアの増長ぶりを見たマヌエルは、1171年にヴェネツィア人の一斉逮捕を行ったために、関係が悪化し、のちの第4回十字軍を生む結果となる。内政面でもコムネノス・ドゥーカス一門の軍事貴族は代を経るにしたがって人数が増加するとともに、各地に根付いて強大化し、中央政府から一定の独立性を保持して、あたかも封建領主のようにふるまった。このため皇帝も貴族たちを統御しきれず、なかには半独立状態になる者まで現れた。数次にわたる十字軍と首都市民との軋轢も次第に深まり、軍事協力の見返りとしてヴェネツィアやジェノヴァに貿易特権を与えたことで国内の商工業は衰退し、関税収入も失われた。 さらに軍事面でも1176年小アジアのミュリオケファロンの戦いでルーム・セルジューク朝に惨敗し、帝国の威信は失墜した。神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ1世は東ローマ皇帝を「皇帝」として認めず「ギリシャ人の王」と呼ばれる屈辱を味わうことになる。こうして失地回復を果たせないまま、東ローマ帝国の国力を使い尽くした状態でマヌエルは没した。アレクシオス1世とヨハネス2世によって取り戻されたかに見えた帝国の繁栄は再び失われ、衰退への道をたどることになったのである。 マヌエルの死後、マヌエルの未亡人マリアの後見のもと、マヌエルとアンナのあいだに生まれた息子のアレクシオス2世が即位したが、アレクシオス2世はまだ幼く、クーデタで政権を掌握したマヌエルの従兄弟アンドロニコス1世コムネノスに帝位を奪われて、母親ともども殺害されてしまった。
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