マヌエル1世の死と虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 18:21 UTC 版)
「ラテン人虐殺 (1182年)」の記事における「マヌエル1世の死と虐殺」の解説
1180年にマヌエル1世が死去した後、息子のアレクシオス2世コムネノスが即位したが、幼年だったため、母でアンティオキア公女のマリー・ダンティオケが摂政として政権を握った。彼女はラテン人商人やそれらと結びついた大貴族・大地主を贔屓したため反感を買い、1182年4月にマヌエル1世の従弟アンドロニコス1世コムネノスがクーデターを起こし、民衆の支持を得てコンスタンティノープルに入城した。これを祝う祝祭ムードはたちまち過熱して暴力性を帯び、興奮した群衆がラテン人地区の住民を襲い始めた。 ラテン人の多くはこうした事態を予測していて、海へと逃れようとした。暴徒は女性も子供も見境なく殺し、病院にいたラテン人の病人も殺害された。家屋、教会、慈善施設は略奪の対象になった。特にラテン人聖職者に対する攻撃はすさまじく、虐殺に居合わせた教皇特使のヨハネス枢機卿は捕まって斬首され、その首は犬の尾に括り付けられ市内を引きずり回された。 アンドロニコス1世コムネノスは個人的にはそこまで反ラテン人的な考えを持っていなかったが、群衆が虐殺を繰り広げるのを黙認した。むしろ彼は、マリー・ダンティオケらがラテン人にコンスタンティノープル略奪の機会を与える約束をしていたなどと宣伝し、虐殺をあおった。
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