ベルナール・ナタンによる経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 03:08 UTC 版)
「パテ (映画会社)」の記事における「ベルナール・ナタンによる経営」の解説
1929年2月末、映画プロデューサーのベルナール・ナタン(Bernard Natan)がパテを買収し、その経営権を握った。ナタンは1886年にルーマニアのヤシで生まれたユダヤ人(出生時の名前は Natan Tanenzapf)で、1906年にフランスに移住し映写技師となり、大戦でフランス軍に従軍した後に「ラピッド・フィルム」(Rapid Film)を率いて快進撃を続けていた。彼がパテを買収した時点で、パテの財政は危機的状況にあった。創業者シャルル・パテは1920年代から会社の資産を売却し続け、その金で株主への配当を増やし続け、会社のキャッシュフローを健全に見せかけていた。シャルルは当時、パテという社名と雄鶏のロゴを、会社の収益のわずか2%という額で他社に売るようなことまでしていた。ナタンが買収した会社はこのような状況であり、しかもアメリカに始まった大恐慌がフランスに襲いかかりつつあるという最悪の時期でもあった。 ナタンはマスメディアから執拗な攻撃(特に反ユダヤ感情に基づくもの)を受け続けたが、パテの財政を健全化して、製作から配給までの垂直統合を進め近代的な映画会社へと改造しようとした。パテ・シネマはパテ・ナタン(Pathé-Natan)へと改名し、アルテュール・ベルネードとガストン・ルルーが経営していた映画会社「Sociètè des Cinéromans」を買収したほか、映画館経営会社を買収しフランスやベルギーでの映画館網を強化した。1930年代前半の大不況およびアメリカ映画の猛攻でフランスの映画会社が次々倒産したにもかかわらず、パテ・ナタンは好調な経営を続けた。利益は1億フランに達し、年に60本以上の長編映画を製作した(これは当時のアメリカの大手映画会社が製作した映画の合計に匹敵する)。1927年に利益が上がらないとして製作を中止していたニュース映画「パテ・ニュース」も再開させた。 ナタンは映画ビジネスの拡大のために研究開発にも投資した。トーキーを導入し、1929年9月に最初のトーキー長編映画を製作し、その1ヵ月後に最初の音声付きニュース映画を製作した。また「Pathé-Revue」と「Actualités Féminines」の2つの映画雑誌を創刊し、パテの映画のマーケティングや顧客の需要喚起に役立てた。また天文学者・光学技術者アンリ・クレティアン(Henri Chrétien)の研究にも投資した。彼は、シネマスコープやその他のワイドスクリーン・フォーマットを可能にしたアナモルフィック・レンズの発明者であった。 ナタンは映画以外のメディア産業にも投資を進めた。1929年11月にはフランス最初のテレビジョン会社「Télévision-Baird-Natan」を設立した。1930年にはパリのラジオ放送局を買い、持株会社「Radio-Natan-Vitus」を設立してラジオ帝国の建設へと乗り出した。 しかし1935年、パテは破産宣告された。会社の拡大を続けるため、パテの取締役会(シャルル・パテもその一員として残っていた)は1930年に1億500万フラン分の株式発行を決議していた。しかし不況の深刻化で株式のうち半分が売れ残った。パテはもはや買う余裕のない劇場チェーンの買収計画を進めねばならず、収益が上がっているにもかかわらずそれ以上の損失を出し続けた。 パテの倒産でナタンはフランスの官憲の取り調べを受けた。ナタンは、担保もないのに企業買収のための資金融資を受けた疑い、ペーパーカンパニーを作って投資を呼びかけ集まった資金を踏み倒した疑い、怠慢から会社の経営ミスを引き起こした疑いで咎められ、さらに改名してルーマニアやユダヤの出自をごまかそうとしたとまでされた。ナタンは1939年に告訴され収監された。収監中の1941年にも告訴を受け有罪とされている。1942年9月に釈放されたが、当時はすでにフランスはナチス・ドイツによる占領下で、フランス当局はナタンを占領当局に引き渡し、彼はそのままアウシュヴィッツへと送られた。ナタンは同年もしくは翌43年にアウシュヴィッツで死亡したと考えられている。
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