プロトティーポ期 (1971年-1973年)
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「ランチア・ストラトス」の記事における「プロトティーポ期 (1971年-1973年)」の解説
ランチアにとっては興味の薄いストラトスHFゼロであったが、ベルトーネからしてみると量産モデルとなった場合の年間生産台数3万台というランチア側とのミーティングで提示されていた数字は利益を考えても充分魅力的であった。そこでベルトーネはストラトスHFゼロがミッドシップというラリー競技車にとって有利であることを利用して量産化に向けた売り込みをランチアに対してかけ、さまざまな要素を検討した。 前述のようにラリー競技での勝利を目指す車を欲していたランチアでワークス・チームの責任者を務めていたチェーザレ・フィオリオは、ラリー競技に特化されたマシンが席巻している中でフィアット傘下に入った事によるランチア製品ラインナップの縮小と言う現状からの背景上、「手持ちの駒がなければ作ればいい」と以下の点を新たにチーム・ディレクターとして加わったピエルーゴ・ゴッバート、エンジニアであるジャンニ・トンティ、クラウディオ・マリオーリ、作業に関わるメカニックからの意見を纏め上げ、ラリー競技車の条件として課した。 補修、点検が容易に行える整備性 過酷なサファリラリー・ステージに耐える頑強な機械機構(高い信頼性) ラリーでの高度な運動性能 これらが2、3年で色あせてはならないという命題をもとにベルトーネが作り上げたのが強固なモノコック構造のコックピットの前後にプレス鋼板製のボックス型サブフレームを取り付け、そのフレーム上に各々前後端のピンで大きく開口する軽量なFRPの前後カウル(後にヒンジ化され、実戦仕様ではさらに肉薄化される)の蛍光赤色に塗られたランチア・ストラトスHFプロトティーポ(Chassis No.1240)が1971年秋のトリノ・ショーで発表された。 エンジンやトランスミッションを搭載する車体後部は整備性を十分に考慮した骨格とされ、サスペンション周りの構造は同時期にフィアットで開発され、当時ベルトーネ在籍のマルチェロ・ガンディーニがストラトスと並行してデザインに携わっていたフィアット・X1/9と同形式の剛性の高いものが採用され、後にX1/9はタルガ・フローリオに出場しこのサスペンションの評価を高めたが、ストラトスHFプロトティーポは、開発初期にはランチアフルビアエンジン、 ランチアベータ エンジンそして1971年のトリノ・ショー公開時に、フェラーリディーノV6 の3つの異なるエンジンを載せ、サスペンションは後述の通り実戦やテスト走行での改修が必要な段階にあった。しかし、剛性の確保しやすい、全長及びホイールベースの短い車両という点から、ストラトスのボディ剛性は当時のF1マシンに匹敵し、例えば20年近く後に出たフェラーリ・348を上回るほどだったという。 この高いボディ剛性のためストラダーレに対してラリーカーも大きな補強をすることなく、ほぼそのままの状態であった。この強固なシャシーの発案自体はX1/9の開発にも関与していたダラーラであり、製作はランボルギーニ・カウンタックや後のBMW・M1のフレームを担当したウンベルト・マルケージであった。ストラトスには高い競技能力が期待されたために同様のMRシャーシ・レイアウトを持つX1/9で世界ラリー選手権(WRC)に参戦するよりも、より宣伝効果の高いグループ4(英語版)クラスにストラトスを投入することがフィアットの販売戦略により決定され、ラリーチームのエースドライバーであるサンドロ・ムナーリ、クラウディオ・マリオーリらの意見も取り入れてその後の開発が行われた結果、完成した最終プロトタイプがスポンサーの意向により1972年のツール・ド・コルスからWRCのプロトタイプクラスに投入された。 ツール・ド・コルス参戦当初はサスペンションにトラブルを抱えていたもののその後もダラーラのバックアップ体制の下で熟成は続けられた。1973年には量産モデルに近いプロトタイプが発表されたが、この車は後に純正オプションとなるルーフとリヤのスポイラーが無く、前後カウルのアウトレットルーバーの形状や、ダッシュボード上に計器類が配列され、ワイパーは2本式といったようにストラダーレの形態との差異があった。 この時点でランチアは仕様書に沿って具体化、改修されていく暫定的なストラトスをストラダーレとしてのデチューンバージョンを視野に入れた擦り合わせもエンジニアに加わったマイク・パークスと共にテストをプロトティーポを実戦投入しつつ同時進行していく事となる。ストラダーレの生産予定は公認取得予定であった1973年中に行われる予定であったが、大幅に遅れつつあった。ストラダーレのデザイン、製造はランチアのテクニカルディレクターであるセルジオ・カムッフォが担当した。
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