プロのキャリア
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「ドミニク・ウィルキンス」の記事における「プロのキャリア」の解説
ジョージア大学に在学中の1982年のNBAドラフトでユタ・ジャズから指名されたが、数ヵ月後の開幕前にアトランタ・ホークスに移籍してキャリアの大部分をホークスで過ごした。入団2年目の1983-84シーズンから1993-94シーズンまで11シーズン連続して1試合平均20得点以上を記録、1985-86シーズンは30.3得点で得点王に輝いた。ウィルキンスを中心としたチームは強豪チームとなり1980年代にホークスは4回50勝以上あげることができた。主なチームメイトは、ケビン・ウィリス、モーゼス・マローン、ドック・リバース、スパッド・ウェブ、ムーキー・ブレイロックなど。 NBAオールスターゲームに9回選出された。またスラムダンクコンテストで2回優勝している。特にウイルキンスとマイケル・ジョーダンとの戦いは白熱した。1984年は、ラリー・ナンスが優勝してウイルキンスは敗れた。1985年は、ジョーダンと決勝で戦い優勝。1986年のダンクコンテストでは、ジョーダンが負傷したため、ジョーダンvsウィルキンスが再び戦うことはなかった。ウイルキンスは決勝に進出したが同僚のスパッド・ウェブとの対決で敗れた。1988年にウイルキンスとジョーダンは再び決勝で戦い、ジョーダンが優勝した。シカゴで行われた試合だったのでシカゴ・ブルズ所属のジョーダンに有利な状況だった。1990年に最後のスラムダンクコンテストに出場する。若手の有望選手であるショーン・ケンプ、スコッティ・ピッペンとケニー・ウォーカー(1987年優勝)と戦い、決勝でケニー・スミスを破り優勝する。 チームの顔とも言えたウィルキンスだったが1993-94シーズン中にダニー・マニングとのトレードでロサンゼルス・クリッパーズにトレードされた。その後、ボストン・セルティックス、サンアントニオ・スパーズ、オーランド・マジック、ヨーロッパのギリシャやイタリアのチームでプレイした。 NBA歴代13位の26,668得点、そして7,169リバウンドの記録を残した。 2001年1月13日、彼の背番号21番はホークスの3人目の永久欠番となった。 NBAでの優勝経験がなかったためか、NBA史上最も偉大な選手50人に選ばれる事はなかったが「選ばれないのはおかしい」との意見も聞かれた。 彼の弟、ジェラルド・ウィルキンスもNBAの選手だった。また、ジェラルドの息子であるダミアン・ウィルキンスはシアトル・スーパーソニックスなどでプレーした。 957試合連続ファウルアウトしなかった。これはモーゼス・マローン、ウィルト・チェンバレンに次いで3番目の長さである。 2021年10月21日、「NBA75周年記念チーム」に選出された。(76選手。75人目が投票でタイだったため。)
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プロのキャリア
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「ジェリー・ウェスト」の記事における「プロのキャリア」の解説
1960年のNBAドラフト(英語版)でオスカー・ロバートソンに次ぐ全体2位でミネアポリス・レイカーズに指名された。まもなくレイカーズはロサンゼルスに移転し、ロサンゼルス・レイカーズとなった。 1年目のシーズン、平均17.6得点、4.2アシスト、7.7リバウンドと優秀な成績を残した。レイカーズは36勝48敗と負け越したがプレーオフでは地区決勝まで進み、当時強豪だったセントルイス・ホークスに3勝4敗で敗退した。新人王はロバートソンが獲得した。 翌シーズンは平均30.8得点(リーグ5位)、5.4アシスト(リーグ6位)、7.9リバウンドと活躍し、オールNBAファーストチームに初めて選出され、引退するまでの間にこの賞を10回受賞することになる。1962年1月17日に1試合63得点を記録した。 レイカーズはプレーオフを勝ち進み1962年のNBAファイナル(英語版)に進出するが、ボストン・セルティックスに敗退。これ以降もレイカーズはファイナルでセルティックスと幾度も対戦し、その度に敗れることが繰り返され、優勝には届かないスター選手として過ごしていった。 ウェスト個人の活躍は目覚ましく、1965年の平均31得点はリーグ2位、1970年の31.2得点はリーグ首位と高い水準の得点を記録し続け、チームも1962年、1963年、1965年、1966年、1968年、1969年、1970年にNBAファイナルに進出した。このうち1969年までは全てセルティックスに、1970年にはニューヨーク・ニックスに敗れ、優勝を逃した。1962年のNBAファイナル(英語版)は第7戦を3点差で、1966年のNBAファイナル(英語版)には同じく第7戦を2点差で、1969年のNBAファイナル(英語版)も第7戦を2点差で落とした接戦だった。この第7戦では42得点・13リバウンド・12アシストで、ファイナルでは史上初の40得点以上によるトリプルダブルで、この記録は2015年のNBAファイナル(英語版)でレブロン・ジェームズが記録するまでは唯一であった。 1970年のNBAファイナル(英語版)第3戦で放ったシュートはよく知られている。試合間終了間際にコート中央から打ったシュートがブザーと同時に決まって同点、試合は延長に続くことになった。レイカーズは結局この試合を2点差で落とし、最終の第7戦にも敗れ優勝を逃した。 1971-72シーズン、既に30歳を過ぎており怪我も多かったウェストは引退も考えたが、このシーズンのレイカーズは歴史的な躍進を果たすことになった。リーグ新記録である33連勝を含めてシーズン成績は69勝13敗。ウェストの平均9.7アシストはリーグ首位となった。1972年のNBAファイナル(英語版)に進んだレイカーズはニューヨーク・ニックスを4勝1敗で破り、自身初の優勝を経験した。 その後2シーズンを過ごしたウェストは、怪我で31試合の出場に留まった1973-74シーズンが終了すると引退した。
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