ブラウン監督時代
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2006年 ルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となるマーティ・ブラウンが監督に就任。戦力補強はチームのモチベーション低下を懸念して最小限に抑え、先発投手の負担を抑えるため、投手の分業化を図った。キャプテンは野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹が就任。 開幕戦から4月11日の巨人戦まで1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続となった。その後も波に乗れず、黒田以外の先発投手が期待に応えられずに借金を増やし、5位に終わった。ドラフトでは後に絶対的エースとなる前田健太の単独1位指名に成功。 2007年 キャプテンは前年に引き続き、前田と黒田であった。交流戦までは5月の大型連勝で10以上あった借金を返済し、5割を維持していた。このシーズンからセ・リーグでは初となるプレーオフ制度(クライマックスシリーズ)が導入され、進出を目指したが、交流戦では最下位に沈み、優勝争いから脱落。最終順位は2年連続5位に終わったが、阪神には2001年以来6年ぶり、ヤクルトには2000年以来7年ぶりに勝ち越した。 課題の投手陣では黒田以外にも、大竹寛が先発として一定の成績を残したものの、3番手以降が続かず、守護神・永川勝浩がたびたび救援失敗するなど、中継ぎ陣も安定感を欠いた。チーム防御率もリーグワーストの4.22に終わり、課題を克服することはできなかった。この年の日本シリーズでは中日(セ・リーグ2位からCSを突破)が1954年以来53年ぶりに日本一となったため、広島は2013年で初めて日本一となった東北楽天ゴールデンイーグルスを含む12球団の中で「最も日本一から遠ざっている球団」となった。オフに新井と黒田がFA宣言し、新井は阪神、黒田はロサンゼルス・ドジャースに移籍。 投打の柱を失った広島は思い切った組織改革を行うなど、新たな球団経営に取りかかった。 2008年 苦手の交流戦を13勝11敗として4年目にして初の勝ち越しを記録し、対巨人戦も12勝10敗2分けでこちらも勝ち越しを記録している。若手の台頭などもあり、中日やヤクルトと熾烈な3位争いをしたものの、選手層の薄さ、慢性的な戦力不足や経験不足から終盤に息切れし、11年連続Bクラス、シーズン成績も7年連続負け越しが確定したが、北京五輪での主力選手離脱による上位チームのもたつきなども幸いして最終的に2001年以来7年ぶりの4位となった。延長戦、コールドゲームを除いた試合時間が、12球団で最短だったことから、スピードアップ賞をチームで受賞した。オフに横浜を自由契約となった石井琢朗を獲得。 この年までに入団したNPBの現役日本人選手は白濱裕太・會澤翼・松山竜平・安部友裕(いずれも広島)・丸佳浩(巨人)の5人、MLBの現役日本人選手は前田健太(ミネソタ・ツインズ)だけである。 2009年 この年から広島県を本拠地とするスポーツクラブの連携組織「トップス広島=広島トップスポーツネットワーク」に正式加盟。本拠地も初代の広島市民球場から「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(通称・マツダスタジアム)」に変更した。この新スタジアムの開場が後に人気球団になる布石となった。 オープン戦の最中に栗原健太のWBC参戦に伴い、3月20日にスターティングメンバーを急遽変更した。 シーズン中は投打がかみ合わない試合が多く、低迷状態に陥り、対中日戦では13連敗で球団記録を59年ぶりに更新した。しかし、後半戦ではヤクルトの急失速から阪神・ヤクルトとの三つ巴状態で3位争いを展開し、一時は3位と0.5ゲーム差という僅差であったものの、阪神の粘りやヤクルトの追い上げなどから3位争いから離脱し5位に終わる。Aクラス入りという続投条件をクリアできなかったためブラウン監督と再契約せず退任が決定し、ブラウンは楽天の監督へ移籍した。緒方孝市が現役を引退した。ブラウンの後任にOBの野村謙二郎が監督に就任した。チーム勝ち頭であったコルビー・ルイスが残留目前から一転して退団した。
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