フェニックスとナッシュビル・サウンド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/31 23:48 UTC 版)
「ウェイロン・ジェニングス」の記事における「フェニックスとナッシュビル・サウンド」の解説
妻マキシンの父親が病気で、ジェニングスはアリゾナとテキサスの間を往復しなければならなくなった。彼は家族とともに、妻の妹が住んでいるクーリッジ (アリゾナ州)に引っ越した。クーリッジやフェニックス (アリゾナ州)にある幾つかのバーやクラブの演奏で成功した後、彼はJD'sことジェームズ・D・ミュジルから勧誘された。ミュジルはメイン・アーティストとしてジェニングスを雇い、彼の活動に合わせたクラブを設計した。 彼は、ベーシストのポール・フォスター、ギタリストのジェリー・グロップ、ドラマーのリッチー・オルブライトと共に、自分のバックバンドとしてザ・ウェイローズ(The Waylors)を結成した。ジェニングスと彼のバンドはスコッツデール (アリゾナ州)のナイトスポットで演奏し、すぐに現地のファンを獲得した。JD'sにて、ジェニングスは自身の「ロック気質な」スタイルのカントリー音楽を開発し、後のキャリアで自分をそのように定義した。 1961年、ジェニングスはトレンドレコード社とレコーディング契約を結び、シングル「Another Blue Day」である程度の成功を収めた。彼の友人ドン・ボウマンが、当時A&Mレコードの共同経営を始めたジェリー・モスにジェニングスのデモを持ち込んだ。1963年7月9日、ジェニングスはレコード売上の5%を貰うとの内容でA&Mと契約を結んだ。A&Mにて、彼は「Love Denied」(B面「レイヴ・オン」)を、そして「Four Strong Winds」(B面「Just to Satisfy You」)を録音した。 彼は続けて「The Twelfth of Never」「Kisses Sweeter than Wine」「Don't Think Twice, It's All Right(邦題:くよくよするなよ)」のデモを録音し、シングル「Sing the Girls a Song, Bill」(B面「The Race Is On」)も制作した。同シングルは1964年4月から10月にかけてリリースされた。 ジェニングスのレコードは、当時A&Mの主要リリースがカントリーではなく民俗音楽だったため、ほとんど成功しなかったことが判明している。フェニックスの地元ラジオで、彼はイアン・タイソンの「Four Strong Winds」やボウマンと共同作詞した「Just To Satisfy You」で若干のヒットを飛ばした。 一方、彼はBATレコードにてアルバム『Waylon at JD's』を録音し、これはクラブで500枚が売れた後、さらに500枚が製版された。彼はまた、1964年のアルバムでパッツィ・モンタナのリードギターを演奏した。 歌手ボビー・ベアは、フェニックス通過中にカーラジオでジェニングスの「Just to Satisfy You」を聞き、最終的にその曲と「Four Strong Winds」をレコーディングした。フェニックスに立ち寄ってJD'sでのジェニングスの公演を目の当たりにした後、彼はナッシュビルにあるRCAビクターのスタジオ責任者チェット・アトキンスに電話をかけ、ジェニングスと契約する必要があることを伝えた。 ジェニングスがRCAビクターの契約を提示された後、彼はJD'sでのギグを辞めるべきかどうか確信が持てずにいた。彼はその後、自分のショーにも参加してくれたRCAビクター所属アーティストの友人ウィリー・ネルソンに助言を求めに行った。2人が会い、クラブでの可能性とジェニングスの健全な利益について話し合った後、ジェニングスはフェニックスに留まるべきでナッシュビルに移籍しない方がいい、とネルソンは提案した。 それにもかかわらず、ジェニングスはRCAビクターの申し出を受けることに決め、1965年にジェニングスはRCAビクターと正式に契約した。8月21日、ジェニングスは「That's the Chance I'll Have to Take」でビルボードのホットカントリーソング・チャートに初登場した。 1966年、ジェニングスはRCAビクターのデビューアルバム『Folk-Country』をリリースし、続いて『Leavin' Town』『Nashville Rebel』をリリースした。『Leavin' Town』は、最初のシングル2曲「Anita, You're Dreaming」と「Time to Burn Again」がともにビルボードのホットカントリー部門チャートで最高17位となる成功を収めた。同アルバム3枚目のシングル、ゴードン・ライトフットの「(That's What You Get) For Lovin' Me」のカバーは最高9位に到達し、ジェニングス初のトップ10シングルとなった。1967年、ジェニングスはヒットシングル「Just to Satisfy You」をリリースした。インタビューの中で、ジェニングスは、この曲がバディ・ホリーとロカビリー音楽を融合した自分の作品の影響の「かなり良い例」だと語った。ジェニングスは、この同名ヒットシングルを収録するアルバム『Just to Satisfy You』を制作し、チャート中位の好調な売れ行きだった。ジェニングスのシングルは成功を収めて「The Chokin 'Kind」は1967年にビルボードのホットカントリーシングルで最高8位、翌年の「Daddy That's Walk'll Walk the Line」は最高2位のヒット曲になった。1969年、ザ・キンバリーズと彼の合作によるコラボシングル「MacArthur Park」はグラミー賞(最優秀カントリー・デュオ/グループ・パフォーマンス賞)を受賞した。彼のシングル「Brown Eyed Handsome Man」は、年末までにホット・カントリー・シングルのチャートで3位になった。 この時期、代理店主催の音楽ツアーは非生産的で、宿泊費と旅費を支払い終えるとジェニングスの利益は目減りしてしまい、彼は次の会場で演奏するためにギャラの前払いを代理店やRCAビクターに頻繁に要求していた。路上で300日間演奏している間、ジェニングスの借金はアンフェタミンの消費とともに増加し、彼は自分が堂々巡りの罠に嵌まったと信じ込むようになっていた。 1972年、ジェニングスは『Ladies Love Outlaws』をリリースした。 アルバムの題名となったシングルはヒット曲となり、アウトロー・カントリーへの彼の最初のアプローチとなった。 ジェニングスは自身のバンド、ザ・ウェイローズと共に演奏し録音することに慣れていたが、これは大きな力を持つナッシュビルのプロデューサーに認められなかった。時間が経つにつれて、ジェニングスはナッシュビル・サウンドには芸術的自由が欠如しているため制約を受けていると感じるようになった。「カントリーポリタン(en)」として公表された音楽スタイルは、オーケストラ的な編曲と伝統的なカントリー楽器が無いという点が特徴となっていた。そのプロデューサーは、ジェニングスに自分のギターを弾かせたり、録音する素材を選択させたりしなかった。
※この「フェニックスとナッシュビル・サウンド」の解説は、「ウェイロン・ジェニングス」の解説の一部です。
「フェニックスとナッシュビル・サウンド」を含む「ウェイロン・ジェニングス」の記事については、「ウェイロン・ジェニングス」の概要を参照ください。
- フェニックスとナッシュビル・サウンドのページへのリンク