ニューヨーク公共図書館長時代
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「ジョン・ショウ・ビリングス」の記事における「ニューヨーク公共図書館長時代」の解説
さてニューヨークでは、1886年に元ニューヨーク州知事のサミュエル・ティルデンという人物が死去したが、彼は遺言で公共図書館の建設を条件にその遺産をニューヨーク州に提供するものとした。これを受けて州では既存のアスター図書館に加え、経営危機に陥っていたレノックス図書館を買い取ってその資料を元に新たな図書館建設に動いた。その結果、1895年5月23日にニューヨーク公共図書館が発足したが、理事会のみが存在するだけで、図書館は旧来の両図書館から引き継いだ3つの施設が別々に存在し、館長も決定していなかった。そこで理事会は陸軍を退官したばかりのビリングスに初代館長就任を要請した。軍医総監局図書館長時代はあくまでも本業は軍医で、図書館長は兼務であり、いわば「素人」ではあったものの、30年にわたって館長を務めてきた実績と各地の図書館関係者との交流によって、彼は図書館学の専門家と同じような評価を受けていたのである。彼はこれを受け入れてフィラデルフィアでの退官セレモニーから2週間も経たない1895年12月11日に初代館長に就任した。 そして、彼が最初に取り組んだのは軍医総監局図書館長時代と同じ、3つの施設にあった28万3千冊の図書及び3万冊の小冊子の統一的な目録作成と集約された図書館本館の建設であった。彼はハリー・ミラー・ライデンバーグ(Harry Miller Lydenberg)とともに目録作成に取り組み、1901年に100万枚に及ぶカード目録を完成させた。一方、五番街にはビリングス自らが大英図書館の視察を参考にして設計した図書館が建設されることとなり、1911年に14年の歳月をかけて完成した。更にこれと平行してニューヨーク市内各地に分館が建設され、ビリングスが死去するまでに市内のほとんどの地域に37の分館が建設されていた。ビリングスがこれだけの費用を投じることが出来たのは、彼がアンドリュー・カーネギーが設置したカーネギー財団の筆頭参与であったことによる。ビリングスとカーネギーは1892年に初めて出会ったが、仕事が好きで社会への奉仕に喜びを見出すことに共通点を持った両者はたちまち親友となり、ビリングスはカーネギーの慈善・文化事業の顧問的存在となっていたのである。1901年にビリングスはカーネギーに最終的には65館に及ぶ大規模な分館を有した図書館網構想を提案した。若い頃に苦学をし、読書の重要性を認識していたカーネギーはこの提案を自分に打ち明けてくれたことを喜び、直ちに協力を申し出た。また、ビリングスらが資金不足で一度は継続を断念した「Index Medicus」の刊行が再開されたのも、カーネギーのビリングスに対する信頼の厚さによるところが大きかった。更にビリングスはこの図書館網を支える人材育成のために完成したニューヨーク公共図書館内に図書館学校を設置した。彼は優秀な人材であれば、人種や性別を問わなかった。後に図書館における児童サービスの基礎を築いたアン・キャロル・ムーアはその代表的な存在であると言える。また、ビリングスはアメリカ図書館協会会長も務めた。 もっとも、ビリングスは仕事に没頭する余り、仕事を家に持ち帰ることもしばしばで、後に彼の息子が婚約者に「父親は妻や子供に余り関心はない」という批判めいた手紙を書き残していたことが明らかになっている。だが、1912年8月19日に妻・キャサリンが病死すると、打ちひしがれた彼はそのまま病床に就くようになり、半年後に館長在任のまま75歳の生涯を閉じたのであった。
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