ニューヨーク周辺での任務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/28 15:19 UTC 版)
「モーゼス・ヘイズン」の記事における「ニューヨーク周辺での任務」の解説
ヘイズンとその連隊はニュージャージーのモリスタウンにあるワシントンの主宿営地でその冬を過ごした。そこでヘイズンは再度訴訟沙汰に巻き込まれた。アーノルドとの以前の対立に関する告発を審査する軍法会議のためにその任務を解かれ、また夏の道路建設の間に物資の管理を誤ったことで告訴された。1780年春にストイベン男爵による軍隊の詳細審査が行われ、ヘイズン連隊と既に103名まで減っていたリビングストン連隊を合併するよう推奨された。ヘイズンとリビングストンの間にはその年功に関する政治的な確執があり、ヘイズンがその闘争に敗れて、1781年1月1日付けの再編成実行に続いて、統合された連隊を諦めることになった。 1780年1月、この連隊は失敗したスタテンアイランドの攻撃に関わった。この作戦がイギリス軍に漏れていた。ヘイズン連隊はエノック・プア旅団に転籍となった。その転籍が実行されるまでにヘイズンは全旅団の指揮を任されたが、このときも准将昇任の要請は拒絶された。その夏、旅団はウェストポイント地域に配置換えとなった。そこへ行く途中でヘイズンは兵士達が水を飲む為に停止することを認めたが、これで軍の隊列を壊してしまった。ストイベン男爵は軍の規律を破った廉でヘイズンの逮捕を命じた。このときもヘイズンは無罪となり、直ぐに士官および紳士に相応しくない行動でストイベンを告発した。ストイベンは謝罪した。 ヘイズン連隊はその秋ウェストポイントの対岸で守備に就いたが、このときイギリス軍スパイのジョン・アンドレが捕まり、アーノルド将軍は逐電した。ヘイズンの甥であるベンジャミン・ムーアズを含めヘイズン旅団の兵士100名がアンドレの処刑に立ち会った。
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