ドイツ西部諸邦の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 15:12 UTC 版)
プロイセン軍の本体はザクセンを経て、オーストリア正面となるボヘミアの主戦場へ向かったが、それとは別にオーストリア側についたドイツ西部諸邦についても派兵を行った。6月15日にはドイツ連邦議会で反プロイセン票を入れたザクセン王国、ハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国(ヘッセン=カッセル)の3か国に局外中立と軍備解除を12時間の回答期限で要求し、回答がなかったために同日の夕方には開戦を布告し、16日より侵攻を開始した。当時、ドイツ連邦には対フランス用の5個の要塞が整備されており、交渉の決裂によりマインツ、ルクセンブルク、ランダウ、ラシュタット、ウルムの要塞からベーエル少将のプロイセン軍は退去してヴェッツラーヘ集結、オーストリア兵はヘッセン公アレクサンダーの指揮下でフランクフルト付近に集合した。両軍の状況は次の通りであった。 6月15日、プロイセン王国がドイツ西部諸邦へ派遣したマイン軍の編成は、司令官にファルケンシュタイン大将、参謀長にクラーツュシロー大佐、その指揮下にはゲッペン中将の第13師団約14,000人(プロイセン領ヴェストファーレンより召集、ミンデンに集結)、マントイフェル中将の集成師団約14,000人(ホルシュタインより南下)、ベーエル少将の集成師団約20,000人(連邦要塞より退去、ヴェッツラーに集結)の以上約48,000人。目的はドイツ西部諸邦とオーストリア本国との分断。 オーストリア側の兵力は当初統一指揮がなかったが6月旬から、連邦軍第7軍団長であったバイエルン国王カールが司令官となり、直率の約50,000人(歩兵3個半師団、騎兵1個師団、砲兵1集団。ヴュルツブルクに集結)、また指揮下にハノーファー王のハノーファー軍約20,000人、ヘッセン公アレクサンダーの第8軍団約53,000人(大砲114門、内訳はヴュルテンベルク兵14,000人・大砲42門、バーデン兵12,000人・大砲38門、ヘッセン兵10,000人・大砲24門、ナッサウ兵5,000人)以上約120,000人。目的はプロイセン軍のテューリンゲン以北への駆逐とヴェストファーレン領のプロイセン本国からの分断およびハノーファーの援助であった。 プロイセンは開戦期限の15日夕方から行動を開始し、3方面より攻勢を取った。北方のマントイフェル軍はハンブルクから南進、西方のゲッペン軍はミンデンから東進、ハノーファーを目指し、南方からベーエル軍がヴェッツラーからカッセルへ北進して包囲を狭めた。ハノーファー軍は戦備も戦意も乏しく、第8軍団は雑軍の集合であってバーデン兵は友邦プロイセンへの攻撃を渋った。15日、ハノーファーではホルシュタインから撤退してきたカブレンツ将軍のオーストリア軍がハノーファーの防備も固めるどころか深夜に鉄道でゲッティンゲンへ去ったことで動揺が広がった。16日の朝、ハノーファー王ゲオルクは失明にも関わらず兵力をゲッティンゲンに集中してプロイセン軍に抵抗しようとした。西方から東進したゲッペン軍は16日朝にミンデンを進発して抵抗もなくシュタットハーゲンへ進出、更に17日午後5時にハノーファー市を占領した。18日には同国政府を掌握し、国民も支配に従った。北方のハンブルクから南進したマントイフェル軍は破壊された鉄道の修理に時間を費やしたが、ラウエンブルク経由で18日にはリューネブルクに進出、19日夕方に鉄道でハノーファー市へ到着した。21日にはカッセル陥落の報によってハノーファー軍はゲッティンゲンを退いた。 エルベ川に所在していたプロイセン海軍もマントイフェル軍の歩兵1個大隊を3隻の輸送船に乗せて護衛し、18日の午前にステードに向かい、19日午前3時には水兵を含む部隊が市街戦の後に占領した。19日、ウェゼル河口のヴィルヘルムの守兵はプロイセン軍の到達を聞いて退却した。22日、エムズ河口のエムデン砲台がプロイセン軍に占領された。 ヴェッツラーのベーエル軍は15日よりカッセル占領のために進撃し、20,000人の兵力を国境のギーセンに集結し、政府を敵とし人民を敵としないことをカッセルに布告した。ヘッセン・カッセルでは15日の開戦に驚き、王城を捨ててマインツへ向けた退却準備を始めた。またカッセル-マーブルク間の鉄道を破壊し、16日より退去を開始してフルダ市まで移動、19日にはハナウに到着してフランクフルトの第8軍と合流した。16日にベーエル軍はマーブルクに到着、ここで部隊を分離して本体がカッセルを衝くとともに一隊をヘルスフェルトからアイゼナハ経由で鉄道を遮断してメルサンゲンからカッセル南方に進出する計画であった。しかし、カッセル軍の退却が早かったため、19日の夕方にカッセル市に到着したベーエル軍は捕捉に失敗した。ヘッセン公はカッセルを去らずに軍主力と離れて近衛兵だけヴィルヘルムスホーエの古城に留まった。22日、プロイセン軍はヘッセン公と交渉し、プロイセン主導のドイツ連邦改革への参加を求めたが、ヘッセン公は応じなかったため捕虜となりオーデル川畔のシュテッティン要塞に幽閉した後、ポメラニアの城へ移送した。こうしてヘッセンはプロイセン軍の勢力下におかれた。ベーエル軍は80kmを4日間で行軍し、カッセル軍は南方に逃したもののゲッティンゲンのハノーファー軍の退路を断ち、南方から包囲の一角を形成することに成功した。
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