デュラント=ドート・キャリッジ・カンパニー
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「ウィリアム・C・デュラント」の記事における「デュラント=ドート・キャリッジ・カンパニー」の解説
パターソン社への発注は累計1万台にのぼり、すべて完売した。その利益は再び投資にまわした。1895年11月6日にフリント・ロードカート・カンパニーをデュラント=ドート・キャリッジ・カンパニー(Durant-Dort Carriage Company)と改組した。4輪のキャリッジ事業にも進出した。メールオーダーでの販売や、カナダやオーストラリアへの輸出も開始した。全米への事業展開ではデュラントは地域による傾向があることもわかった。たとえば車体の色は東部では黒一色が好まれる。一方、中西部ではさまざまなバリエーションに富む。ピンストライプ模様も人気だった。デュラント=ドート社の販売は好調で生産が追いつかなくなり自社生産も開始した。従来の組立業者や部品業者同士が組合を結成し対抗したため、部材が高騰しはじめた。デュラント=ドート社は広葉樹の森を購入し、車体、車輪(インペリアル・ホイール(Imperial Wheel)社)、車軸(Flint Axle Works)、そのほか、装飾、ばね、塗料(Flint Varnish & Color Works)など部品別に特化した子会社を設立して、上流からの統合生産を手がけるようになった。「原材料から製品の配送までを一貫しておこなうこと」を指して「バーチカル・インテグレーション(垂直統合)」と経済の専門家が名づけるようになるのは後(のち)のことだった。 同業他社はまだ受注後組立だったが、デュラント=ドート社は積極的な営業と統合された生産で馬車製造業界で最先端を走った。デュラントがのち生涯のライバルとして意識することになるヘンリー・フォードはデトロイトから一旦地元に戻り父親の農場を手伝っていた頃で、大量生産を先に手がけたのはデュラントの方だった。大量生産をおこない製品を低価格で販売するということは当時としては大胆な試みであり、「自社ですべてをまかない大量生産し低価格で販売する」ということは自動車産業ではフォードで花開いた。しかし、フォード以前にデュラントは馬車産業においてアセンブリーラインを用いた大量生産をおこなった。19世紀中ごろの米国ではワゴン、バギー、キャリッジなど馬車の大量生産がすでに開始されていた。高品質のバギーの価格は1860年代に135ドル、1870年代には100ドル、1880年代に50ドル。インディアナ州のスチュードベーカーは1875年に1万5千台を生産した。デュラントはこれに加えて「市場のあらゆるニーズを多種多様な車両でカバーするという戦略」を馬車産業でおこなった。数年後には自身の創設したGMにおいてデュラント自身がこの斬新な考え方を自動車に対して適用した。 デュラントは、デュラント=ドート社で幅広い車種構成を用意した。北はトロントから南はアトランタまでの馬車製造業者を買収し、馬車製造業者をまとめ上げ、これによって取り扱う車種も広がった。また、銀行を営んでいた伯父叔父などからの資本を元に、別系統のキャリッジ製作販売もおこなった。1892年には「ウェブスター・ビークル・カンパニー」を設立し、サスペンション(ばね)付の軽量ワゴンを、また、1894年にはクラポ製材所内に「ビクトリア・ビークル・カンパニー」を設けて伯父叔父の息子に経営させ4輪バギーを製造し利益を上げた。ウェブスター・ビークル・カンパニー(Webster Vehicle Company)はウェブスター(T. P. Webster)、ダラス・ドート、デュラント、デュラントの親類ウィリアム・クラポ・オーレル(W. C. Orrell)が1892年に設立し、ばね付軽量ワゴンを製造した。ビクトリア・ビークルカンパニーは以前のクラポ製粉所(Crapo sawmill)跡に1894年に設立した。デュラント=ドート社の売れ筋トップモデルはブルー・リボンだった。「馬車の世界でのフォードだった」と後のTime誌が評した。他に、エクリプス、スタンダード、ビクトリア、モーリン、ダイアモンドといったモデルや、カリフォルニア専用モデルのポピーなどがあった。 デュラントは当初より「販売から製造へ」というアプローチをとった。西部開拓、道路の発展などで馬車需要が高まっていくなかで、デュラントはまず販売を固め、その後に自社製造を行った。1900年頃のデュラント=ドート社は14の工場と数百名の営業を要し、価格50ドルの馬車を日産200台と大量生産し、年間販売数5万台以上、年間利益200万ドルを稼ぎ出し、業界のリーダーとなった。デュラントは全米の販売会社を回り販路拡大に努め、ドートは本社で日々拡大する需要を統括し、2人それぞれの役回りがうまくかみ合っていた。デュラント=ドート社の最大生産は1906年で雇用労働者1000人で日に480台を生産したが、このころデュラントはすでにビュイックに力を入れていた。 当時のデュラント=ドート・キャリッジ・カンパニーのオフィス建屋はフリントのウエスト・ウォーター・ストリート315に残っている。デュラントはGM設立後も1913年までここを事業拠点として使用していた。
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