ソ連からの技術供与の背景
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「中国の核実験」の記事における「ソ連からの技術供与の背景」の解説
1957年6月にはモロトフらスターリン派がフルシチョフ政権の転覆を企てるなどし、ハンガリー動乱はソ連全体を揺さぶっていた。各国の共産党指導者はフルシチョフを支持したが毛沢東は簡単には承諾せず、原爆製造技術供与を交換条件に付け加えた。ソ連側はこれに応じ、10月15日モスクワは中国に原爆製造の模型提供を約束する協定に署名した。「ソ連原爆の父」といわれるイーゴリ・クルチャトフの反対を押し切り、フルシチョフは、エフゲニー・ヴォロビエフを中国に派遣し、さらにR-2短距離地対地ミサイル二基を提供した(R-2は元々はソ連がドイツのV2ロケットを改良した)。このときに中国の核科学者は60人から6000人に増大している。ミコヤンは「ソ連は中国のために核兵器工場を建設した」とのちに証言している。なお中国側が投資した金額は原爆製造だけで41億米ドル(1957年当時の価値)にのぼったとされる。 1957年10月4日にソ連による人類初の人工衛星、スプートニク1号が打ち上げられた。これはスプートニク・ショックともよばれ、ソ連による大陸間弾道ミサイルによるアメリカ本土攻撃の可能性も示唆する出来事で、西側諸国に衝撃が走った。パニックに陥ったアメリカは、翌1958年までにアメリカ航空宇宙局(NASA)を設立し、マーキュリー計画などを開始し、ソ連との間で宇宙開発競争がはじまる。毛沢東はソ連のスプートニク1号に刺激され、中国も人工衛星を作りたいと願っている。 詳細は「宇宙開発競争」を参照 1957年11月2日にモスクワで開催された共産主義諸国サミットにおいて毛沢東は「戦争が起こったら、何人の人間が死ぬか。世界には27億の人間がおります。その三分の一はなくなってもいい。あるいは半分を失ってもいい。しかし帝国主義は完全に打ち倒されて世界全体が社会主義になる」と演説、参加国は衝撃を受けたといわれる。 毛沢東は1958年5月17日の共産党国民会議の場で、「581計画」を発表し、建国10周年記念の1959年までに人工衛星を軌道上に打ち上げる(我们也要搞人造卫星)ことによって、他の超大国と同等の存在になるべきだと決定した。この計画はまず観測ロケットを発達させ、次に小型の人工衛星を打ち上げ、最後に大型の衛星を打ち上げるという三段階によって達成される予定だった。 1958年4月、中国初のミサイル実験基地、20基地の建設が始まり、同年10月20日には利用可能となっていた。 1958年8月23日には再び台湾を攻撃し、第二次台湾海峡危機となったが、これは原子力潜水艦関連の技術をソ連から供与することが目的だったとされる。 中国初のミサイルは1958年10月、R-2をリバースエンジニアリングして複製したミサイルであり、射程は590 km、重量は20.5 トンであった。 1959年2月にソ連は原子力潜水艦関連の技術供与に承諾するが、ソ連側には中国の態度に不信感を強めていた。前年1958年9月にアメリカ製の空対空ミサイルサイドワインダーが不発のまま中国に着弾した際にソ連側が調査を依頼したが、中国側は「そのようなものは発見できなかった」と回答してきた。これを受けて、フルシチョフは1959年2月にR12ミサイルに関する情報移転を差し止めた。すると、中国側はすぐに「サイドワインダーミサイルが見つかった」と報告してきた。しかしミサイルはすでに中国側によって分解されており、誘導システムは取り去られていた。このような中国側の態度に際してフルシチョフは核開発技術移転をスピードダウンするように命じ、1959年6月20日には原爆関連の援助を中止した。 1959年9月にアメリカとの緊張緩和を模索するフルシチョフは訪米する。これに際して毛沢東は世界的に毛沢東思想を宣伝する機会とした。同1959年9月にインドとの間で中印国境紛争が起きた。また印パ戦争においてはパキスタンを中国が軍事援助し、インドをソ連が支援していた。 ソ連側の技術供与で中国初の観測ロケットT-7は1960年2月19日に南匯区の射場より打ち上げられ、成功した。
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